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 人形のいる風景    柳田国男「オシラ神の話」



 柳田国男の「オシラ神の話」には、柳田自身が、自宅に「オシラ様」を祀っていたという話がでてくる。もともとその動機は、失われていく東北地方のオシラ神信仰の祭式をつぶさに観察記録する機会を得るためという学問的な探求心からでたもののようだが、中道君という若い研究者を介して、青森県の小笠原氏という信心家の家に祀られていた数多くのオシラ様の中から、そのうちのひと組を「東京の新派の信徒」に譲って貰ったという経緯が書かれている。

「中道君はそれ(註・小笠原氏宅の神棚に安置してあった新旧色々のオシラ様)に眼を着けて、何とぞして其一對を東京の新派の信徒に、持って来てやらうと試みたのであった。無論一々の神に就いて、果して遠国に進出して道を傳へたまふの意有りや否やを尋ねたのであったが、それが地方神の古くからの気質ともいふべきものであらうか、何れも移動を拒んで、そんなら行かうといふ御告げは無かったそうである。然るに其中のたった一組、衆神の中に於て齢最も若く、小笠原氏が土地の方言のままにヨデコ即ち末子と謂つて、殊に大事にしていたオシラ様だけが、東京で新しい学問をして居る者の処へなら行つて遣らうと、明快に答へられたといふのは奇縁である。そこで一番の秘蔵の御神体ではあつたけれども、金襴のツギに頭を包み、清い音のする鈴の緒を首に纏うて、遙々と武州まで旅立たせ申すことになつたのである。」

 こうして柳田宅にやってきたオシラ様は、オシラ神としての不思議な霊力を備えている。

「うちのオシラ様の尊厳を保持する為に、私はまだあの丸々と着被いだ何枚もの衣裳を取去つて、中の御姿を拝まうと試みたことは無い。たつた一度だけ、一昨年の太平洋學術会議の後に、露国学士院のステルンベルグ博士が訪ねて来て、是非見たいといふので開けて見せた。さうすると博士は国に帰って、久しからず其訃報を傳へたのである。オシラ様の像を開いて見ずとも、多くの惜しむべき民俗学者はやはり死んで居る。けれども自分はなほ怖れざるを得ないのである。」

 本当はオシラ様が不思議な霊力を備えている、というよりも、オシラ様の像から衣裳を取り去って「ご神体」をあらためてみる事と、それを見たものがほどなく死んだという事に、直接的な因果関係をみてとってしまう柳田の了解づけが、出来事に不思議な力の作用が働いているという印象を与えているのだが、前述の、オシラ様の由来をめぐる語りぶりといい、こうしたところに、民俗信仰の伝承についての柳田の親和的な資質がよくでているように思える。毎年新しく着せ替えられるオシラ様の衣料の比較研究によって、その地方の衣料の種類や流行などの変遷を調べている山本という研究者のエピソードのあとに、柳田は書いている。

「私はこの山本氏の研究に、深い興味を感ずるの余り、何とぞしてこの民間宗教の転換期を記念すべく、うちのオシラ様には新しい毎年の衣裳を、ささげることにしたいと心がけた。最初の年は家の娘と相談して、帯か何かにしようとして居た紫絞りの絹を、稍々長めに裁つて二神一様に着せ申すこととした。斯うして重ねて見ると、下に包まれた青森県の郷土色が、殊に物なつかしい取合せの様に感ぜられる。出来ることならば宗教史の比較研究が、末々この地球の他の隅々にも及ぶであらう如く、今では全く想像の外に在つた方面から、今後の新しい衣料を求めて、うちのオシラ様を悦ばせたいと願って居る。ちゃうど折から本年の春の初、石垣島の測候所に三十幾年、所謂ヤマトオシュメェの生活を続けて居る岩崎卓爾翁から、一枚の絹のテサジ(手巾)が届いた。島に年ふる桑の樹の葉を摘んで、八重山ミヤラビが飼い育てた繭の糸である。島の好みの深ハナダ色に、紋様は興邦國のガイダ(象形)文字の牛と馬とを染抜いたものであった。岩崎さんも奥州の生れで、故郷の因縁が無いとは言はれぬ。わけを話して今一枚、今度は古風な赤枯葉色のを貰ひうけて、其方を男神の衣裳ときめた。是で先ず先ず日本の南の一端まで、うちのオシラ様の世の中が広がつた。此次は海を越えて更にどの方角に進んだものか。それは神意のままとして自分はただ、ひたすらに三月十八日の祭の日を待つたのであつた。」

 オシラ様の衣料に使われている生地の変遷を時代的に研究することで、その地方に当時どんな流行や交通があったのかを跡づけるということは、民俗学の対象になるかもしれないが、研究者がオシラ様を自らの家に安置し、そのしきたりにしたがって毎年新しい衣服を着せ与えること自体は、本来研究対象たるべき信仰習俗の模倣に留まるような、いわば研究の本道からすこし逸れた趣味的な行為だとはいえるかもしれない。柳田は、ここでそういってよければ素朴なオシラサマ信仰者や無邪気な人形好きの少女のように、オシラ様に手作りの新しい衣裳を着せ与えた経緯を、楽しげに、いくぶんかは誇らしげに書き記している。読んでいてほほえましくなってくるほど、「うちのオシラ様」のとりもつめでたい「因縁」や「神意」に思いめぐらせている。しかしそうだからといって、ここに迷妄さと呼びたいようなものはない。「うちのオシラ様」が、古い衣のうえに珍しい遠国でつくられた生地でできた衣服を重ねてきせてもらって、悦ぶ(であろう)こと、は、世界規模の宗教史の比較研究の新たな発展に象徴的になぞらえられているのである。こういうちょっと襟を正したような口振りに、柳田はここでなにか研究と研究対象の信を、みかけの矛盾をこえて結ぶ内観の融和のような道筋に言葉を与えたかったのではないだろうか、と想像してみるのも楽しいかもしれない。文章の次の段では、オシラ神にまつわる数々の奇譚があげられている。盗賊をとりおさえたとか、田植えの手不足の日に、見慣れぬ少年の姿となって手伝いをしたとか、獣の肉を家人が食べると口が曲がるなどの祟りをおこす、といった話だ。そうした多様なふるまいにも、個々のオシラ様の癖や気質、奉仕者の人柄などによって様々な差異がある、と書いたうえで、文章は続く。

「うちのオシラ様などは今こそ至って静かだが、青森の時代には、所謂ヨデ子であつただけに、恐ろしく活発な屈託の無い神であつたといふ。何でも初めて彼家に祭られ、純白の絹の衣裳を着せてもらつた時なども、翌朝起きて見ると早其衣の端の方が汚れて居る。伺つて見ると夜の中に出て行つて、お産のあつた家を見舞つて来たといふことであつた。斯ういふ武蔵野の草深い新開の家まで、招けば気軽に来て見ようと答へられたのも、誠に偶然では無かつたやうである。私は中道君の此一話に、言ひ知らぬなつかしさを感じて、暫らくの間は祭の季節では無かつたけれども、尊像を書斎の上の棚に安置し、折々は手に執つてそのすがすがしい小鈴の音を聴かうとした。うちの子供等も高笑ひをして、喜んでこの不思議の由来談に耳を傾けて居たが、彼等の印象にはおのづから、我々と異なるものがあつたのである。一人は頻りに二足四足を食ふことを、止めなくともよいのかと尋ねて居た。他の一人は、此次は米国に行つて見てはどうかと伺つて見たらなどと冗談の様に言つて居る。気味の悪いといふことは幼稚な者にとつて、可なり複雑な感情であつたといふことを知つた。或時月明の晩に外から帰つて来ると、家には十五になる娘のピアノの音が、高い調子で響いて居た。それが突然と止んで、室にはただ電灯ばかり照つてもう何処かへ行つて居る。尋ねて見ると今夜はもう是で三度、不意に隣の書斎で鈴の音がするので、急いでお婆様の室へ逃げ出したと言つて居る。それでは鼠でも入つてあばれたかと、書斎に行つて見れば何の事も無い。オシラ様はぢつと書棚の上に凭れかかつて居る。私は之を見て、未だ著はれざる一篇の日本巫道史を読んだ様な気がした。さうして急いでオシラ様を春の祭の日の来るまで、桐の箱に納めて置くことにしたのである。」

 このくだりは、とても興味深い。その感想を書く前に、この文章に続けて、出来事の総括のように柳田が書いている個所を引用してみよう。

「この国民の文化の進展に対して、如何に女性が緊要な役割を受持つたかといふことは、彼等自らまだ之を意識して居ない。幻しの値はただ之を嘲る者のみによつて評定せられて居た。しかも我々は愁ひ気づかひ又思ひ惑ふ日に於て、独り感覚の特に豊かなる伴侶の言に由つて、意外なる暗示と頓悟とを得たのみならず、彼等の精細なる記憶は、常に又悩み苦しむ者の慰安であり希望でもあつた。是を文藝と名づけ彼を信仰と呼ぶことが、仮に学者の定義に由つて許容せられぬとしても、少なくとも或無名なる二箇の生存条件は、初期の凡人社会に於ては、主として之を女性の想像力に仰ぐなければならなかつたのである。其証拠は今日では幾段にも既に具はつて居る。オシラ様の歴史は其一隅の例に過ぎなかつたのである。」

 娘が、オシラ様の安置してある書斎から鈴の音がするといって、気味悪がってピアノを弾くのをやめて祖母の部屋に逃げ込んだ。それが三度にわたる。という。自分で確かめても部屋に異常はない。そのうえで、柳田は、この出来事から「一篇の日本巫道史」を読んだ気がした、という。結語の部分は、具体から抽象に伸びていく柳田の想像力や構想力がよく伺われる文章だという感じがするが、要するに、柳田のいいたいのは、自分の娘の、そういってよければオシラ様との鈴の音を介した不思議な交感作用をまのあたりにして、「感覚の特に豊かな」女性や、記憶力に秀でた女性たち、すなわち「巫女」や「イタコ」など、そうした資質をもった女性たちが、古来からこの国の民俗社会や宗教史において果たした役割や、その本源的な価値に改めて思いをはせたということなのだろうと思う。

 ところで、柳田自身のこの出来事についての理解はどうだったのだろうか。これまでの文脈から考えると、やはり、「恐ろしく活発な屈託の無い」性格をもっているこの末っ子のオシラ様(神)が、娘の弾くピアノの音に呼応して、思わず楽しくなって首からさげた鈴をふった、というようなことが、あっても不思議ではないように考えたのだろうか。「さうして急いでオシラ様を春の祭の日の来るまで、桐の箱に納めて置くことにした」という記述は注意をひく。たとえば、柳田の一連の書き方からは、ある理解の筋が消えている。父親が、ある日とつぜん、なにかしら気味の悪い人形のようなものを自分の部屋に大事に飾りはじめた。大人たちの話をきくと、それは、家に住む者にとって良いこともすれば、祟りもする神様なのだという。そういう話をたっぷりきかされたうえで、感想を聞かれた子供たちは、ひとりは、当然のように、家では獣の肉を食べているが大丈夫なのか(話にでてきたように祟られて口が曲がるようなことはないのか)と心配する。ひとりは、本当はそういう気味のわるいものは、どこか余所にやってほしい(外国にでもいってもらいたい)という。そして、ある日、娘は、ピアノを弾いていて「鈴の音」の幻聴をきく。その音が幻聴だといえそうな根拠は、たぶん娘にとって、隣室である父の書斎に安置されているオシラ様のことが普段話題にのぼっていて、常に気になる存在であったこと、ピアノを弾く、という聴覚に注意が集中するような状態にあったこと、また柳田自身が「暫らくの間は祭の季節では無かつたけれども、尊像を書斎の上の棚に安置し、折々は手に執つてそのすがすがしい小鈴の音を聴かうとした。」と、書いているように、何度かは実際に隣室の書斎から父の振る鈴の音が聞こえてくるのを、娘が聴いたことがあったように思われるからである。もちろんこういう理解(推測)の筋があからさまに書かれていないとしても、後段の「幻しの値」という言い方や、「独り感覚の特に豊かなる」とか「女性の想像力」という柳田の「民俗学者」としての言葉の含みに、そうした理解も含意されている、といってもいいのかもしれない。ただ、柳田は、おびえて祖母の部屋に逃げ込んだ娘に、父親として、どんなふうに対処したのだろうか、という一抹の疑念はのこる。オシラ様を娘のおびえをなだめるために桐の箱に封印した、とは柳田は書いていない。「急いで、、、桐の箱に納め」という文章からは、むしろ、オシラ様をいたずらっこのようにみたてて、「春の祭の日の来るまで」(その日には、イタコである「南部の八戸から石橋貞というカカサマ」がやってきて、オシラ遊びをする)静かにしていてもらいたいため、あわてて箱に封じた、といったニュアンスさえうけとれるのではないだろうか。自宅にイタコを呼んで、そのオシラ遊びの祭式の一部始終を見聞観察して記録すること、その「三月十八日の実験」こそが、そもそも民俗学者としての柳田がオシラ様を家に招きいれた眼目なのであった。その当日のことを、柳田は最後の段で書いている。

 「最後になほ一つだけ、自分の家の三月十八日の実験を言ふならば、オシラ遊びにはまだ我々の演芸の、最も古い形が保存せられて居る。八戸のお貞子などの歌物語をするのを見ると、切れで包んだオシラ様を左右の手に一つづつ持って、馬が物いふときは一方の像を上にかざし、姫が答へるときは姫頭の方を傾け且つ動かせた。精粗の差こそはあるが、様式に於てはお染久松などの人形のこなしと、異なる所は無いと思った。、、、巫女が自ら立つて神の舞を舞うた場合も、やはり神物語を絵にしようといふ心持ちは一つであつただらふと思ふ。」



付記)人形の歴史ということを漠然と考えていて、手近にあった折口信夫や柳田国男の著書をぱらぱらやっているうちに、たまたま柳田国男の「オシラ神の話」という文書にいきあたった。東北地方にのこるオシラ神信仰についての研究文集「大白神考」の中の一文だが、著者自らの家に、青森県の信心家から貰い受けてきた一対のオシラ様を安置した経緯や家族の体験を生き生きと書いているくだりがあって、興味深く読んだ。ここではそういう個所だけを引用してあるが、本文では、柳田のオシラ様信仰の由来や祭式をめぐる様々な見識や考察がちりばめられている。柳田が「うちのオシラ様」に新しい衣裳を着せて喜んでいるところ、最初そういうところに気分が同調した(^^;というのが本音なのだが、別の個所でもさまざまな手応えを感じたことを書いているうちに全体がまとまりないままに膨らんでしまった。

 オシラ様は、東北地方にのこる民間宗教の神像で、中には木片に目鼻を書いた人形の形をしたものがあることや、ある地方ではオシラアソビ(オシラ祭り)の日に家を訪れるイタコがオシラ様を両手にもって語りをするといった、祭式の特異さで民俗学者たちによって注目された。もとは祭具だったものが発展したという。当然ながら人形の歴史は宗教史や芸能史に重なるところがあり、時代をくだって愛玩や観賞用の人形もうまれたといわれる。ただ、そうした区分以前の要素を、人と人形の関係はそなえている。そういう「文学的」とも言えそうな心の諸相を、滋味溢れる筆使いで柳田の文書はよく伝えてくれていると思う。



「オシラ神の話」(『柳田国男全集 第十二巻』(筑摩書房刊)「大白神考」所収)
引用個所では旧漢字を新字に置換えている個所が多数あります。



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