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 シンボルスカの一編の詩に



一粒の砂粒のある光景------Widok z ziarnkien piasku


わたしらはそれを砂粒と呼ぶ
それにとっては砂でも粒でもないのに。
それ自身は名無しで済ませる
一般的、特殊的
当座の、永続の
誤りの、正当のいずれの名もなしに。

わたしらの視線や接触も役には立たない
それは見られたとも触られたとも感じはしない
窓の枠に落ちたのも
わたしらの経験であり、それのではない。
それにとってなんの上に落ちようと同じこと
それには確信とてない すでに落ちたか
まだ落下中か。

窓からは湖のある美しい借景
でもそれ自身に、この景色は見えていない
色なく、形なく
声なく、香りなく
痛みのない、それが景色にとってのこの世だ。

湖の底にとり、底はなく
その岸にとり、岸はない。
湖水にとって、湿も乾もなく
波にとって、単一も複数もなく
己のさざめきも聞こえずに波はさざめき
その触れる石には小もなく、大もない。

そしてすべては本来、空のない空の下にあり
そのなかで太陽は、全く没することなく没し
意識のない雲の陰に、隠れずに隠れる。
その雲を風は引きちぎる、ただ風が吹くというほかに
なんの理由もなしに。

一秒が過ぎ
二秒が過ぎ
三秒が過ぎる。
でもそれはわたしら人間の三秒間。

時間は火急な知らせを運ぶ使者のように走り抜けた。
だがこれも人間側の比喩にすぎない。
捏造の走者、無理じいの急ぎ
その知らせは、人間界のものではない。


 窓の枠に落ちている一粒の砂粒への凝視から作品ははじまっていくる。凝視? これを凝視というべきだろうか。たった一粒の砂粒についての想念は、覚醒した意識にゆえもなくふいに届けられたとおい彼方からの声に導かれるように、物象の「存在」ということについてのめくるめくイメージに導かれていく。

 私たちが、砂粒と呼んでいるもの。砂粒そのものにとっては、その名はなんの意味ももたない。砂粒という名称が意味をもたないだけではない。およそ砂粒という言葉の意味に私たちが与えている性質やその根拠とみなしている他の事象との関連性のすべてが、砂粒そのものにとっては別次元のできごとなのだ。私たちは目でみて、手にふれて砂粒が砂粒であることを確信する。というのは、手に触れれば、そこに異物の感覚があること、たとえばそれが目に入れば、私に苦痛をもたらすことを経験的に知っているので、そうした現実の抵抗感を通して、砂粒の存在が私たちの空想の所産ではなく、この世界に「実在」する、とみなしているからだ。けれどそうした、私たちが現実とよぶ平面に、砂粒そのものがあるわけではない。それがどこにあろうと、、、というのは、それがどこにどのようにある、という現象のみたては、そのつどの観測者である私たちの経験や世界認識ときりはなすことができないからだが、、、そのような人間の経験は、かりに砂粒とよばれている当のそのものにとって、なんの意味もない。

 この声はどこからきこえてくるのだろうか。視線は窓枠のへりに落ちている一粒の砂粒から転じて、背景の窓枠によって切り取られた美しい湖のみえる風景へと移行する。この美しい景色、と見えるもの、そのものにとっても、私の目にうつるような姿でこの世は存在しない、と、その声はいう。ここには観念の微妙に勢いこんだ跳躍がある。景色、ということは、ここでいったん否定されながら、もし、景色そのものに主体のようなものがあれば、という仮想が、さらに別次元で実体化されているからだ。そのいみでは、砂粒そのものにとっての世界が、ここでは景色そのものにとっての世界といいかえられ、そのことで声調がしだいに上げ潮のようにたかまっていく。深い色をたたえた湖の淵にのぞく湖底、樹影を投じている岸辺、湖面を吹き渡って小じわをつくるさざ波、波にくりかえし洗われている岸辺の小石、視線はたたみかけるように移動し、ついには(私の)眼前にくっきりと見えているこの景色のすべてが、見られているそのものにとっては、存在しない、とその声はいう。

 濡れることも乾くこともしらず、一とか多という数の概念もなく、音、ということもなく、大きさを測る尺度もない。そのような、そのものたちの世界は本来イメージの否定性を重ねることによってしか語ることができない。あるいは「空のない空の下」とか「太陽は、没することなく、没し」、「隠れずに隠れる」というとき、詩の言葉はこの矛盾した発見の二重性をいいあてようときしんでいる、といいえようか。

 雲を風が何の理由もなく引きちぎる、ということは、またすこし事情がちがっている。いってみれば、この声はすこし私たちの側にひきかえしているのだ。雲を風がひきちぎること自体に人間的な理由があたえられないのは、それを私たちが人為によらない物理的な自然現象だとみなしているからだ。そこには、人間的な理由はないが、物理法則による因果関係がある、とはいえる。ある現象には理由があり、ある現象には理由がない、というような人間の側の判別は、作品の声の流れとしては本当はもう超えられている。風が吹いて雲を吹きちぎるという目にみえる現象も、波が岸辺の石を洗っているようにみえる現象のように、波や石、風や雲そのものとは、なんの関係もないことだと声はいうはずだから。では、この数行でいわれていることはなんなのだろう。それはたぶん、これまで続いてきたこのひとつの声の終息をいみしているように思える。私たちにとっての世界は、その観察対象そのものにとっての世界とは無関係にあって、そのいみで次元を別にしている。そういう声のうながしが、一粒の砂への注視からはじまり、想念は窓辺の風景に、さらに遠景の空や太陽や雲の動きへとひろがっていった。みえていることの否定性としてのこのイメージは、「空のない空の下」とか「太陽は、没することなく、没し」といった形容で言葉としての限界に、あるいみではそのイメージとしての絶頂にたどりつく。そうした声のうながしのはてに、ふと我にたちかえれば、吹き払われる雲の姿がそこに見えている。風に吹きはらわれる雲、とは「意識のない雲の陰」に「隠れず、隠れ」ているものを、一瞬私にかいまみせた風(の声)の美しい喩の形象ではないだろうか。

 つぎの連から最終連にかけては、空間から「時間」へと想念がうつっていて作品は静かな転調をみせている。時間という観念も、人間の世界のもの。これをすこし勝手にいいかえてみると、「時間」の観念とは、自らの身体感覚や想像力をてがかりに人間という類がつくりあげた観念世界のなかに刻まれてあるものだ。3秒という時間の長さの体感は、人間の生理感覚に根ざした、ある共通な比較の尺度を前提にしていて、そうした生物としての身体性を刻印されている。「私」におとづれた声のうながし、たぶん窓辺の砂粒をみて窓外の湖の景色に目をうつした間に経過した物理的な時間とよばれる3秒ほどの間に、「私」の脳裏に生じたことが、ここで「知らせ」といわれている。なぜこうした想念がふいに「私」に訪れたのだろう。「なんの理由もなしに」、というのが、ひとつの結語とはいえそうだが、それをもしその声の内容に鑑みて諸宗教やフィロソフィーの思索に類する「智恵」と呼ぶなら、その「智恵」の「知らせ」は、私たちがふだん現実とみなしているような世界の諸関係からやってきたものではない、ということが確信されているかのように、作品は閉じられている。


 付記)目にすることのできたかぎりのシンボルスカの邦訳された諸詩篇のなかで、この作品はかなり特殊だと思う。ここでは、ひとりの詩人、というより、偶然読んだ一編の詩の内容に惹かれて印象記めいたことを書いたので、詩人に関心をもたれた方は、是非翻訳詩集(『橋の上の人たち』(書肆山田)、『終わりと始まり』(未知谷)、『シンボルスカ詩集』(世界現代詩文庫・土曜美術社出版販売))などにあたっていただきたいと思う。シンボルスカの詩作品が収録されている詩集『橋の上の人たち』のあとがき「シンボルスカ『橋の上の人たち』について」の中で、訳者の工藤幸雄氏は「シンボルスカはだれもが知る平凡な日常のなかで時おり立ち止まり。非凡な詩人に立ち戻って筆を執り上げる。その詩(とくに「一粒の砂粒のある光景」など)の醸す諧謔と閑寂とは俳人の境地にも似るかと訳者には感じられる。」と書かれている。とりあげた作品「一粒の砂粒のある光景」からは、諧謔というより、もうすこし生一本の強い調子のものを感じるが、たしかに詩集タイトルにもなっている詩「橋の上の人たち」では、歌川広重の浮世絵「大はしあたけの夕立」(『名所江戸百景』のひとつ)がとりあげられていて、絵画のなかに閉じこめられ、静止した永遠の時間、ということがテーマになっていて、その作品には、諧謔といえそうな知性のゆとりのようなものが感じられる。作者は東洋文化にも造詣の深い人なのだろうと思う。

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シンボルスカ詩集『橋の上の人たち』工藤幸雄訳(書肆山田 1997年7月30日発行)






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