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 渡辺めぐみ詩集『ベイ・アン』、『光の果て』について



                     死にそろう生を
                     いくさと呼ぶ

                       「翼のないものたちに」より


 渡辺めぐみさんの詩の世界の源郷のようなものを、「病床」というふうにいってみたい気がする。作者が現実に何らかの病を患って、ある時期病床についておられたというようなことがあったのかどうかは知らない。ただ、詩集『ベイ・アン』のあとがきに、「幼少時からの身体の弱さを引きずっていた私自身の生との肉体的あるいは精神的闘い、」という言葉があるのを知るばかりだ。この言葉は、詩集『ベイ・アン』が編まれた時点で、ふりかえられた過去の数年間のこととして、友の死、従兄の死、祖父の死、祖母の発病、といった出来事とともに語られているのだが、詩集『ベイ・アン』や『光の果て』には、病床や病院の情景、医薬品や医療器具などの名称が、数多くの作品のなかにちりばめられている。念のためにいえば、ここでそれらの作品が実際に病床で書かれたかどうか、ということを、とりあげたいのではない。ここでいいたい「病床」というのは、ある精神のありかたを決定づけてしまうような、ひとつの存在の位置なのだ。


夜営

愛してはいけないものを
愛した奴を
鳥と呼ぶ
それは僕達の世界の
鉄則だ
準夜勤の鳥達が
入れ代わり立ち代わり
アーチをくぐって
あっちへ行った
あっちへ行けば
毎秒花がこぼれるわけでなし
闇に笑えるわけでなし
「物好きな奴らだぜ」
と陰口を言いつつ
ほとんど無酸素状態の僕達は
内心鳥に憧れた
鳥たちはやがて
一羽 二羽
と優しい死骸となって
新年のハッピーフィールドに
返されるのだ
とわかっていても
僕達は眠ることなく
遠いアーチを
見張り続ける


 ほとんど無酸素状態で病床にあること。深夜、眠れずに夜勤のように起きている。そういう読み方からすると、愛してはいけないものを愛す、とは、たんてきに「死」への傾斜、を暗示しているといっていいのだと思う。詩集『ベイ・アン』冒頭のこの作品で、精神が「病床」にあることの、ふしぎな特徴がでている。孤独、といえばこのうえなく孤独なのだが、その孤独は同じ境遇にあるような他者の孤独を、自分のことのようにおもいなしているような孤独、おもいをこらすことで支えられているような意識の孤独だ。この「僕達」の共苦の発見ということが、渡辺さんの作品に深い倫理性をあたえているといっていいのだと思う。


ミル

ミル
乳製品の名ではない
この場合宇宙船の名でもない
俗称ミル
幼少期に脳の視床下部に損傷を負った
女の子の名だ

ミルは御伽話が好き
大好きな御伽話のひとつはこうだ

大型バイクに乗った強盗団が
痛いほどの真昼バンクから現金を強奪
行員を多数殺傷
だが逃走中一台だけがバイクを放棄
ダムに落ちた子供を助けたが
自らは心不全にて死亡
彼は悪と善の両方を成して
被疑者死亡のまま
強盗致死傷の容疑で書類送検された

二十歳を過ぎた頃からミルはずっと
このお伽話をかわいがっている
なぜミルが普通の人生を歩めないのか
考えなくてもすむから
いつかミルはアメリカ合衆国の大統領夫人より
幸せになれるのかもしれないし
氷点下の冬に折り畳まれて
虫けらのように
半裸で道端に凍るだけなのかもしれない
メフィストフェレスと主が
じゃんけんして決める
そう思うとき
初めてミルは生きてゆける

俗称ミル
御伽の国の守り番
ミルはいつでも
純白の幸せをまとえるように
ビヒダス菌とアシドフィルス菌入りのヨーグルトを
丁寧に食べ腸の中まで整えている


 幼少期に脳の視床下部に損傷を負ったのが、なぜ他のだれかではなくて他ならぬ自分なのか、という若いミルをなんども悩ませたであろう問いに答えはない。ひとの生そのものの存在の意味は、法的な善悪の審判と無関係にありうるというミルの御伽噺は、その問いのうちけしのように考えられている。この「お伽話」のエピソードには、脱走した殺人犯が、幼い子供をまきぞえに逃避行して、やがてその子供に人間的な愛情をそそぐようになる、というケビン・コスナー主演の映画を連想させるところあるが、この作品でミルがこうした話を好んだのは、いわば人の意志や作為をこえた偶然がひとの運命をきめてしまうことがありうる、ということにミルが慰めをみいだした、というようなことだろう。そうであるかぎり、自分(ミル)だけが不幸であるわけではない。むしろこの不幸(不遇感)は人の存在の条件そのものからやってくるのだ、というように。このミルは、病床にある(と自己規定された)作者の意識の分身、とまでいえないにせよ、詩集『ベイ・アン』には、ミルが好きだという御伽話のバリエーションのような、登場人物が人の思惑をこえた運命に遭遇する寓話のような作品、「サタンの手記」(殺し屋に出会った少女が彼の銃を奪って射殺し、自分も命を絶ってしまう、という出来事が描かれている)、「スピカ記」(19歳で人を殺したスピカはその後結婚して、肺を病み、まだ死ねない、と思ううちに36歳で死んでしまう)が、収録されているのに注意しておいてもいいかもしれない。

 詩集『ベイ・アン』(2001年)から、詩集『光の果て』(2006年)へ、「病床」の物語はうけつがれている。詩集『光の果て』には、近未来SF小説や映画やコミックの舞台設定が背景に想定されているような作品群(「源泉」「序章」「ヒルロイド」「印象のない湖」)が登場して目をひくけれど、これらの作品にあらわれる近未来の戦争状態、暴動、延命効果があるという薬品の争奪戦などは、たぶんそういってよければ「病床」におけるさまざまな「闘病」(体験)の喩になっているように思える。詩集『ベイ・アン』には、これらの作品群の前身と呼べるような、やはり近未来社会を舞台にしたような〈発育〉という作品が収録されている。


〈発育〉

「僕は都市の焼かれる火を見て育った野犬だ 君の耳の傷を舐める
 術(すべ)は知っていても、教えることはない」
群の長(おさ)は言った
小首をかしげてハーモニカを吹き続けている少女がいた
「彼女はダーク・エンジェルさ」
あとで群の人達が言っていた
言われて見れば薄汚れた羽でできたリュックをしょっていた
ひどく落ち着く場所だった
しかしここには居られない
〈使命〉「長の首を取れ」を実行しなければ
ライフルは群の視線に阻止された
群全体が遠ざかったとき
あせって両手で必死に「エンジェル」の首を絞めていた
彼女はきっとサブリーダー格だ
(おまえを記憶する)
と彼女の瞳が叫ぶとき
片方の耳を失った
呪詛によってかもしれない
けれどもこの勇ましき国家保障の両手で
「エンジェル」の心臓を止めた功績により
長の首代の七(なな)がけをいただいた
IDカードを持つ民でいるための
〈実行〉は終わった
安全地帯のハウスに戻った
眠ろう!
残った耳に聴覚催眠装置を取り付けて
とにかく眠ろう!


 くわしい説明はされていないけれど、第3次世界大戦とか宇宙人の侵略とか何らかの原因で地球規模の異変が起きて、社会秩序は崩壊し世界各地で無秩序な混乱状態が長らく続いている、というような近未来SF小説のような舞台設定を背景に想定してもおかしくない感じがする。長らくというのは、群の長がそういう都市の戦火をみて育った世代だ、ということからイメージされる。災厄を生き延びた市民のなかから反体制的なゲリラ集団ができて、その長が「エンジェル」と呼ばれている。語り手はその世界でIDカードを手に入れて生き延びるために、賞金のかかっているエンジェルを狙撃しようとするが果たせず、とっさのすきに乗じて近づいて絞殺するのに成功するが、片耳を失ってしまう。

 いささか乱暴な読み解きかもしれないが、この作品が「闘病」(体験)を描いている、と解釈すれば、語り手は、生き延びるために、「エンジェル」に象徴されるある想念を殺したが、そのことは、「ダークエンジェル」によって「記憶」され、その代償として、片方の耳(エンジェルからの声をきく耳)を失った、というようなことになる。この読み解きからすれば、IDカードを持つ民になる、ということは、この幻の戦場である「病床」からの実社会への帰還ということを象徴していることになる。もうすこしいえば、「エンジェル」というのは、翼をもつもの=「死の想念」だとまでいっていいような気がする。

 詩集『光の果て』の「源泉」という作品では「天国と地獄の間の梯子の上/残夢の低酸素層」に運び込まれたらしいという「わたし」がヘルメットを目深に被って立ち尽くしている「衛生兵」にむかって、「おまえは正真正銘の衛生兵か/ならばモルヒネを持っているはずだ/出してみろ」と詰問する。「序章」という作品では、体内に青い血が流れている異人たちを殺戮するために、しくまれた暴動を装って警官隊が市民を殺すという出来事が描かれている。「ヒルロイド」という作品では、人々が延命効果があるというヒルロイドという医薬品を手に入れようと争奪戦をくりひろげる。「印象のない湖」という作品では、西暦「2050年代」か「2070年代」かに起きたという出来事(戦闘中の改造兵たちの集団が地図にものっていない湖にはいっていって水中で溶けてしまったという)が、ただひとり生還した「わたし」の口から過去のことのように語られている。

**

 平和な時代というが、どんな時代にも「病床」ではみえない生体の戦いが行われていて、そこでは誰もが幻の兵士であるほかはない。誰が「病床」に運ばれるのかは、およそ人の計らいをこえている。もし「病床」のない世界が考えられないのなら、世界の平和とはいったいなんだろう。偶然病からまぬがれている人だけが、病を忘れ死を忘れていることができる。それが平和という言葉の内実ではないのだろうか。ときに、そういうようなことを作者が考えたかどうかはわからない。ただ渡辺さんの作品には、「病床」で体感した稀有な世界への視線や世界像を、いったんくぐりぬけてなんども反芻することで、自らの位置をたしかめようとしている、そういう印象をうける作品がいくつもあって、あまり類をみない倫理的な詩的世界をつくりあげている、という感じがする。


翼のないものたちに


 喜びは悲しみの父
 死は生の花嫁

暗がりに貢ぎ物をした男よ
予審判事が来る前に
友はぶら下がっているだろう あの場所に
天は高く 地は低い
裏切りという言葉を発せずして
慟哭の賛否を問うがため
早朝までにぶらさがっているだろう あの梁から

 悲しみには毛が生え
 無風にもそよぐ

遠くの日なたに干しておけ
妬みは
血がしたたるまで逆さにし
しもべのように干しておけ

 死にそろう生を
 いくさと呼ぶ

カーテンが静かに揺れる
選ばれたものだけの時間
聖職者は交尾を開始する
彼らはとても疲れた虫だから
彼らはとても虫だから

 喜びは悲しみの残像
 死は生の胎動

翼のないものたちは目を閉じてはいけない

 喜びは悲しみのかそけき父
 死は生の清らかな花嫁

翼のないものたちは決して目を閉じてはいけない

 ...............................
 ...........................

翼のないものたちはいかなるときも息をせよ
はやり病いが大地を這いずり
煙が幾度立ち上がろうと
記憶の谷を川は流れる
翼のないものたちは息をせよ
葬られても息をせよ




ARCH

渡辺めぐみ詩集『ベイ・アン』(土曜美術社出版販売 2001年12月15日発行)

ARCH

渡辺めぐみ詩集『光の果て』(思潮社 2006年4月20日発行)






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