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映画「荒野のストレンジャー」について



 湖のほとりにある小さな鉱山町に現れたひとりの流れ者。床屋で無精ひげをたたって貰っているとき、因縁をつけにやってきた3人の男をたちまちのうちに射殺してしまう。逮捕されるとおもいきや、殺された男達は町民が雇っていた用心棒で、悪行のかずかずに手を焼いていたところだったので、おとがめなし。それどころか、殺された3人になりかわって、町の用心棒になってほしいと、町の有力者たちは彼に頼みこんだのだった。それには、町民達に恨みをもっている3人の無法者が、近々刑務所を出所して、町に復讐にやってくる、という事情があった。流れ者の男は、望みの物はなんでも与えるから、という条件をのんで用心棒になることを請け負うが、その結果、保安官や町長をくびにして、それまで床屋の使い走りをさせられていた小男を抜擢したり、ホテルは独占するは、ただ酒は町民におごりまくるは、と、やりたいほうだい。さらに奇妙なことに、3人の無法者が町にやってくる前日に、流れ者が命じたのは、町の入口に歓迎の垂れ幕をはり、屋外パーティの準備をし、町中の家を赤いペンキで塗りたくる、ということだった。。。

 イーストウッド監督のアクション・ウェスタン映画。レンタルビデオやDVDをかりなくなって久しいし、市販のDVDもよほどのことがないと買わず、映画はほとんどケーブルテレビで契約している映画専門チャンネルで放映されるものをみている。ついでにいえば本はほとんど図書館。ということで、読書や映画鑑賞に関しては、かなり受動的な享受者になっているのだが、それでとりたてて不満も感じないというのが、ここ数年の日常パターンなのだった。という私的な事情は、まあどうでもいいのだが、本でも映画でもこちらから探索して見るほどではないけれど、この著者ならとか、この監督の作品なら面白いにちがいないから、機会があればみてみたい、というものは当然ながらあって、私にとっては、イーストウッド監督作品もそうしたもののひとつ。というわけで、この初期作品も偶然ながら、映画専門チャンネルでやっていて、ちょっと期待してみたのだった。

 その結果は、といえば、大いに楽しめた。イーストウッド監督の西部劇というとどうしても「許されざる者」(1992)のイメージがあるのだが、この作品には20年後のその作品の原型のようなところがあって、そういう意味でも興味深かった。

 ストーリーは単純と言えば単純で、謎めいた流れ者が町にやってきて、町民たちになりかわって、無法者を撃退して去っていく、というものなのだが、一見、勧善懲悪のヒーローもの映画のようでいて、その枠をはみだそう、という意欲がすでにして感じられる。というより、ある種の寓意性とともに、人間の善とはなにか、悪とはなにか、と見る者にといかけるような「許されざる者」のテーマが、すでに胚胎されていることが、みてとれるのだった。

 無法者達の復讐の影におびえる町民たちには、実は、かって用心棒としてその無法者たちを雇っていたという過去があった。その当時の町の保安官が、町の繁栄の元になっている鉱山のある土地が、実は国の所有地のなかにあることを知り、そのことを公にしようとした。町の有力者たちは、ことの発覚を恐れて、無法者たちを雇って,町民たちの見守る中、路上で保安官を鞭で殺させたのだった。しかし、そのご、無法者たちはその事実を逆手にとって、町をのっとろうとしたので、煙たくなった町民たちは彼らを刑務所送りにした。といういきさつなのだった。つまり、この町の住民たち全員が、自己保身のために、かってひとりの保安官を見殺しにした、という罪をおって生きていて、そのいみで、罰をうけて当然というふうに描かれている。というより、その原罪のような犯罪からすべてはじまっていることになっているのだった。

 ところで町にやってくる流れ者はなにものなのか、といえば、これは実は殺された保安官の亡霊なのだった。この保安官の亡霊は、復讐をとげに町にもどってくるのだが、彼の復讐には二重の意味がふくまれている。直接には、自分を鞭でうちころした3人の無法者に対する復讐であり、つぎには、そのとき、彼を救おうとせずに黙ってみていた町民たち全員に対する復讐である。この後者の復讐のニュアンスは、ちょっと微妙なところがある。この「見殺しの罪」に対する復讐の形象化とでもいうべきものが、町で傍若無人にふるまう彼の所業すべてにあらわれているのだ。象徴的にいえば、町民たちは、彼を「まれびと」(来訪神)のように扱うことで、荒ぶる亡霊のいかりをなだめていることになる。そのへんを深読みすると、とてもおもしろい物語になっている、と感じられる。

 流れ者が町中の家を赤くペンキでぬらせて、大きなテーブルをつくらせて、お祭りを準備をさせるのは、とても奇妙だが、彼を「来訪神」と考えると、すべて納得できてしまう。死者の魂をなだめるために町民たちは、さまざまな形で供物をさしだすことを無意識のうちにさせられているのだ。町にやってきた早々、流れ者が彼を誘惑しようとした女性を納屋に連れ込んでレイプするシーンがあったり、町民の妻を寝取るシーンがあったりして、正義のヒーローとは程遠いことに驚かされるが、これも一種の供物であり、好色な古代の英雄神のような来訪神の所業と考えれば、納得がいく。

 亡霊にとっては、自分を見殺しにした町民も、直接手をくだして自分を殺した無法者たちもどちらも復讐の対象にかわりがないのだが、この亡霊の魂は、もともと善良なところがあるらしい。というか、町民たちの苦労の代償として、町をソドムやゴモラのように焼き尽くして天罰を下さずに去っていく。このあたりは、看板の町名を「地獄」にかきかえるなど、聖書をパロディ化して、作者はかなり意識的に遊んでいるように思う。

 暴力の支配する世界の非情さを描いているようで、このニヒルな亡霊の主人公の心根の善良さというのが、映画の洒落たところであり、イーストウッド映画の大きな魅力になっているように思えるのだった。


「荒野のストレンジャー」(監督 クリント・イーストウッド 出演 クリント・イーストウッ ヴァーナ・ブルーム マリアンナ・ヒル  1972米)




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