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柿沼徹詩集『ぼんやりと白い卵』について



 柿沼さんのこの詩集には、21編の作品が収録されている。作品の多くは日常の生活体験を題材にしたもので、作品のスタイルから受ける印象は、行分けや作品構成のすみずみまで配慮のいきとどいた、洗練された現代詩という感じのものだけれど、そうしたスタイルで身近な生活体験を題材にして書かれているからといって、作品の内容がどれもすっとふにおちるようにわかりやすいか、というとそうでもない。というのは、作品には作者の体験した「うつ」の症状(註1)とみられる深刻な非現実感を描写したものが、いくつも含まれていて、そうした記述が作品への安易な共感をこばんでいるようにみえることと、そうした非現実感の感受そのものを核にした物象の概念をめぐる思索が、いくつかの作品で詩の主要テーマのように語られているように思えるからだ。けれど、この後者のわかりにくさは、ときに日常のなかで常識と考えられているものの見方やとらえ方をくつがえす哲学的な思弁に通じるようにも感じられて、作品にちりばめられている鮮やかで印象深い比喩や、人柄から滲みでてくるような温かなユーモアのセンスとともに、この詩集の大きな魅力になっている。

※※


木々


地層の切断面が
西日に晒され
木々の根が
むき出しになっていた


断層をつらぬいて
太い根が
さらに下に枝分かれしていた


枝分かれするたびに
枝は細くなり
かさなりあって渦まき
上下左右を走りまわっていた


地上の梢。発芽。
その上の空。


私たちが木々を眺めるのは
木々が好きだからでなく
眺めることが好きだからだ


ぜんぶ地表の下に隠したまま
木々は
花をさかせる
私たちの視野のなかで
おどけるために


 作品前段の、むき出しになった木の根の形状をカメラアイのようにとらえる視線の動き。夕日を浴びた地層のなかに、太い木の根がとらえられ、枝分かれした部分から、その繊毛がからまりあって縦横に乱れている先端へと、視線はしだいにその細部を執拗にとらえていく。そこで視線は上昇に転じ、地表の梢や、その枝先で若芽が発芽している様子、さらに上空の夕空を写しこんでとぎれる。そこからはじまる後段は、前段とはうってかわった思弁を含んでいる。たぶんこの転換がこの作品の大きな流れを支えているのだと思う。読むものはこのとき、異質の言葉をつきつけられて、前段の描写との内的な対照を強いられるからだ。
 後段の最初の連は、前段のカメラアイのような執拗な根の描写の理由を説明していることになるのだろうか。「私」は、木々が好きでこのように執拗に観察したことを記述したのではない。そのように観察すること、あるいはその観察の描写が好きだっただけだ、と。それとも「私」ではなく、「私たち」、つまり人は、ふつう自分が木々が好きで眺めていると思いこんでいるが、実は好きなのは、そうして眺めている、という自分の行為そのものであって、対象である木々ではない、ということを言おうとしているのだろうか。いずれにせよ、眺めることが「好きだ」、といういいかたは、前段の感情をそいだような執拗な根の観察描写と、どこかそぐわない感じがする。最終連は、また前段とどんなふうにつながるのだろうか。前段で描かれていたのは、「ぜんぶ地表の下に隠したまま」「花をさかせる」ような木々ではなく、むしろ隠された根の部分をさらけ出しているような木の描写だ。木々は、根の部分を地下にかくして、地表では、おどけるために花をさかせる、というのは、わかりやすいたとえだが、ここでも、木々が「おどける」といういいかたは、どこかそぐわないかんじがする。このそぐわなさの感じは、やはり前段の木の根の観察描写と、後段の「木々」についての思弁が、別次元にあるようなところからくるような気がする。
 後段でいわれているのは、こういういいかたがいいのかどうかわからないが、説話的な「木々」についてのはなしなのだ。前段の木の根の観察描写は、むしろ内面的な心象風景の形象化のようによめるところがある。もしかすると、見ることに関わる現実感の変異のようなものの感覚が、作者をして、この夕日に晒された木の根に注意を促したのではないだろうか。「好き」、ということばがつかわれているのは、自分の木の根への注意の促しが、そういう感情とは無縁のものだったからだ。「好き」という感情とは無縁なところで、自分は、この根を晒して立っている樹木に注意をうながされた。そういう現実感は、たぶん作者にとって、風景全般をおおっていて、およそ情感の失われた世界として世界がある。その現実感の実在がたしかなものだとすると、感情というものは、そこに偶然付与されたようなかりそめのものではないのか。人々は木が好きだから眺めるという。しかし感情が失われても木を眺める、ということがありうる。そのほうが根底的な人とモノとの関係性におかれているといえるわけで、その場合、好き、ということばをとりもどそうとしたら、眺めること自体が「好き」というしかない、というように。最終連は、やはり詩の前段の木の根の観察描写が、内面的な心象風景の形象化だととらえると、そのまま重ねて読めそうなところがある。ここでは木々が説話的に擬人化されているからだ。というより、語りたいところは、本当は人(自身)のことで木々のことではない、というところまで言えそうに思う。。



今日



電車の中の液晶ディスプレイが
台風の犠牲者数を伝えていた


踏切を渡りながら
女子高生たちが笑っていた


そのような今日の中に
今日の自分が立っている


施設の廊下で車椅子の人が
幼児のような大声をあげていた


そのような今日をきみは黙読する
今日の中に立つほかないから


 この作品は詩集巻頭におかれていて、詩集全体を読み終えて再度むきあったとき、この詩集全体に流れる雰囲気というものをよく象徴している作品であることに、あらためて気づかされる。短くてわかりやすいようでいて、最終連でちょっとたちどまってしまうような作品だ。最終連の「きみ」は、作者が自分自身を対象化している、というふうに読めば、「今日」さまざまな場所で遭遇した光景を見ていた、というその自分の所作そのものが、「黙読」という言葉でいいあらわされているように思える。けれど同時に「黙読する」「きみ」は、この詩集をよみはじめようとている(黙読しようとしている)、読者のことをさしている、というふくみが、ここには含まれているようにも読めそうだ。その場合、読者もまた、作者とおなじように、「今日の中に立つほかない」といっていることになる。このいいかたはとても微妙だが、詩集をよみおえてみると、「今日の中に立つほかない」という言葉で、作者がしめしたかったこと、そのものが、その詩集全体を流れる、ひとつのテーマであったことに、気づかされることになるのだった。

 「今日の中に立つほかない」というのは、どういうことなのだろうか。この作品がどこか苦みのある印象をあたえるとしたら、「今日の中に立つ」ということが、「立つほかない」といういいかたで限定されている、というところからくるように思える。電車の中で液晶ディスプレイに流れるニュース記事のテロップに目をとめたこと、街を歩いていて、通りすがりに楽しげに会話している女学生達のグループにであったこと、所用で訪れた施設の廊下で、大声をあげている車椅子にのった人をみかけたこと、こうしたことは、多分誰でも身に覚えのあるような、あるいみありふれた日々の出来事に数えられるように思う。そのような「今日」の中に「今日の自分」が立っていた、そこに立つほかない、と作者は告げる。とすると、私たちはこうした、さまざまな偶然の出来事に遭遇することから、逃れられない。そのような現実の細部のなかに生きている、という日常の体験の意味が強調されているのだろうか。たぶんそのようでありながら、それだけではいいたりないものがここにあるように思える。

 ふつう「今日」なにがあったのか、ということをふりかえるとき、自分がどこにいき、なにをして、そのことが自分にとってどのように感じられたか、といった、自分の目的や意志にむすびついた出来事が想起される、のではないか。「今日」のなかで、自分が立っていた、ということばは、そういう自分の目的や意志にむすびついた行為にこそ、ふさわしいのではないか。ということはいえそうに思う。けれど、作品でいわれているのは、目的的な行動のあいまに見聞きした、いわば偶然のであいのようなことで、たとえば、何かの理由でのっていた電車、何かの理由で歩道を歩いていて遭遇した風景、なにかの理由で施設の廊下を歩いていてみかけた光景、というように、自分の遂行中の行為とは直接かかわらない出来事が選ばれている。この何かの理由が省略されていることで、その偶然の体験だけが、生活の流れからきりはなされた「今日」として照明をあてられている。だから、この「今日」は、ほんとは、時間の流れをとめたような、その一瞬の「今」とか、「現在」といった感覚に近いのかもしれない。

 もうすこしいってみると、これらに共通しているのは、偶然であったことでありながら、その事象と自分の意識のへだたりを通して自分に感受されるような出来事であることだ。こまかくいば、そのことを通じて自分が何を感じたか、ということも省略されているから、そういうふくみがでてくるのだが、ニュースで台風の犠牲者数を知っても、女子学生たちが笑っていても、車椅子の人が大声をあげていても、傷ましいと感じたり、華やかさを感じたり、同情したり、といった情緒は表現のうえではかくされていて、むしろ自分にとっての疎遠で非現実的な感じが強調されているように思える。もっともだれしものべつ事象にふれて感情をあらわにするわけではないし、意識というものもそんなふうにできてはいないので、こうした記述は私たちの日常の感覚によくみあっているようにも思えるのだが、そうしたあるいみ感動が遮断されたような自分の感覚に立ち止まって、そこに「今日」をみさだめ、そこに「立つほかない」というとき、作者はその感覚にむきあうことで、逆に「今日」のたしかな自己像(立っていた自分)を希求している、といえるのかもしれない。また、そのことが、人の存在の不思議さをめぐる隣り合わせの思索への旅でもあることを、この詩集のいくつもの作品はつげているように思う。


亀の音



何が欠けているのか


部屋のすみ水槽があり
水槽のなかで亀が這いあがろうと
ガラスをひっ掻いている


何が欠けているのか
それがわからなければ
それをとりもどすことができない


這いのぼろうとして立ちあがり
そのまま背後に倒れこみ
また這いあがろうとする


食卓、時計、空き瓶、水道の蛇口...
なにひとつ欠けているものはなく
同じ今のなかで静まっている


爪がガラスを掻く音がつづき
なんのいわれもなく、亀の音と私は
同じ今に塗り込められている


ガラスを掻く音がつづき
何が欠けているのか
それがわからない
ということがわからなければ
それをとりもどすことができない



 この作品は、詩集二編目におかれている。静かな部屋の隅で、亀が水槽のガラスを爪で掻いて、耳障りな音をたてている。見てみると背後に倒れ込んでは起きあがり同じ所作をくりかえしている。そういう印象的な情景が、「何が欠けているのか」、という自分の存在感をめぐる問いかけのような言葉とシュールにくみあわされて、なんとも名状しがたいような印象をのこす作品になっている。部屋のなかに欠けているものはない、しかし、何かが欠けている、と感じている私と、亀の音だけが、「なんのいわれもなく、」「同じ今に塗り込められている」と書かれている。亀はガラスを通して水槽の外部の室内がみえるので、その向こう側に出ようとしてしきりにガラスを掻いているだけで、水槽の材質がガラスだというせいで耳障りな音をたてているのだが、そのことと、「何が欠けているのか」という存在感をめぐる問いかけには、本当は、まったく共通性がない。ただあるとすれば、静かな室内のなかできこえるその執拗で耳障りな音の違和感と、「何が欠けているのか」という応えようのない問いかけのまとっている強迫感のような感じが、似ている、とはいえるのかもしれない。「何が欠けているのか それがわからなければ それをとりもどすことができない」ということばは、理路がとおっているが、「何が欠けているのか それがわからない ということがわからなければ それをとりもどすことができない」という言葉は、むつかしい。「何がかけているのか」わかれば、それを探し出すことによって、とりもどすことができる。けれど、「何がかけているのか それがわからない」ということが、わかっても、それが何であるのかわからない以上、さがしようがないから、とりもどすことはできないように思えるからだ。では、これは言葉あそびなのだろうか。
 この何かが、もしかって喪失した具体的な物であるとするなら、たしかに最後の連のいいかたは言葉あそびにすぎないといっていいのかもしれない。しかし、たぶんこの「何か」は、ある種のリアルで充足した現実感、というようなことを指しているように思える。その場合、私が、「何かが欠けている」と感じ、どこかに答えをさがしているうちは、それを取り戻すことはできない。なぜなら、それは、モノのようにどこかにみいだされるものではないからだ。「何が欠けているのか、それがわからない」ということ、この強迫感をともなうような自問自体には、答えがないこと、答えのわからない問いだとわかることが、それをとりもどすことになる。なぜならそのとき「何が欠けているのか」ととう「今」から、何が欠けているのか、わからない、ということが、現実であるような、別の「今」に私が移行したことを、意味しているからだ。それでもそれは思念のなかのことだけで、実感としては、単純にその何かとりもどすことはできないかもしれない、とはいえるのかもしれない。それは現実の心身は、ガラスを掻く亀の音のように、無意識がよびこむさまざまな存在感の亀裂のようなものに晒されるという可能性からは逃れようもないからだ。



用事のない場所



コーヒーを注文して
煙草に火をつけると
なにもすることがなかった


まわりは
見知らぬ顔でうまっている
それら客も
壁も
壁にかかる油絵も目にうつるすべてに
遠近感がなかった


今やることがない
ばかりか
ずっとこれからも
やることはないのではないか...


うごめいているようにみえて
静止している
なにか広い全体の上で
浮遊している


これからさきやるべきこともない
というより
じつは過去からずっと
やることはなかったのではないか
だれにも
用事などないことを
だれも
知らないだけではないのか


用事があると考えることも
用事がないと考えることも
道順を失っている


だれも用事について
考え込んでいるようすはなかった



 喫茶店でコーヒーを注文して煙草に火をつける。ちょとした息抜きやそうやってぼんやりくつろぐための時間のはずなのに、気持ちは自己意識にむかって「なにもすることがない」自分にむけられていき、現実感覚がとおのいて、周囲の空間も遠近を欠いた二次元の絵のように感じられる。この感覚は、うごめいているようで静止している、とか、広い全体の中で浮遊している、といういいかたのなかに、的確にとらえられている感じがする。いま、やるべきことがない、という感覚は、時間の感覚としても遠近を欠いて、ずっとこれからもやることがないのではないか、という未来や、過去からずっとやることはなかったのではないか、というように過去や未来にスライドされていく。たぶんここでは、故意に「やること」、「やるべきこと」、「用事」という言い換えがそのスライドに合わせてなされていて、どこか浮き世ばなれした空想がひろがっていく感じがよくでているが、もし「やるべきこと」へのうながしが、「何かが欠けている」という「亀の音」の問いかけと同じような、自意識の欠如感と同質の問いようにみなせるとしたら、ここで、作者が与えている「用事があると考えることも」「用事がないと考えることも 道順を失っている」といういいかたは、ちょうど、問いからはなれた別の次元に「わからないということがわかる」答えをみいだすという「亀の音」の詩行によくにているようにおもう。



コバヤシの内部



眠りから放り出されると
昨夜の会話の足跡のように
食器が散在している
明け方の食卓


その上に
一個の卵がある
傷ひとつなくそこにあることが
うす暗い光のなかで
私に向き合っている
それ以外は夜明け
底知れない夜明けだ


ぼんやりと白い卵
せめて呼びかけてみたい
例えば...
コバヤシ、と呼んでみる
と、それは
見たことのない一個にみえる
手のひらのうえの
コバヤシの固さ
やわらかな重さ


コバヤシを床に落とす
コバヤシは落下のさなか、ま下に
今を見すえる


耳のなかで
かすかに列車の音がひびく
コバヤシが
床に乱れているコバヤシの内部が
明け方の光をうけている...



 眠れずに明け方起き出してきて食卓のうえに卵をみつけ、その卵を手にとってたわむれにコバヤシと名付け、床におとして割ったら、内容物が床に乱れ散った。そういう早朝の出来事が淡々と描かれているようで、どこか謎めいていて不思議な雰囲気をたたえた魅力的な作品だ。卵をみて「せめて呼びかけてみたい」というところに、ユーモラスな味があるが、そんなふうに思うのはなぜなのか、「コバヤシ」と名付け、手のひらにのせて感触を確かめているうちに、とつぜん床に落としてしまうのはなぜなのか、この一連の挙動の理由にはふれられていない。早朝の食卓でひっそりと演じられた孤独な舞台劇をおもわせるようなこの作品はどんなふうに読み解けばいいのだろうか。思いつくままにいってみると、「床に乱れているコバヤシの内部が 明け方の光をうけている...」という最後の部分から連想されるのは、詩「木々」の前段の木の根の描写の部分だ。木の根もまた、夕方の光に晒されていた「内部」なのである。とすると、なぜ、「コバヤシ」を床に落としたのか、という疑問は、ちょうど「木々」の、後段の言葉に関連がありそうに思えてくる。


ぜんぶ地表の下に隠したまま
木々は
花をさかせる
私たちの視野のなかで
おどけるために


 この「木々」の最終連の「木々」について書かれているイメージを、「コバヤシ」と呼ばれている卵にあてはめてみると、ちょうど「おどけるため」といわれているところが、「卵」に「コバヤシ」となずける関係性にあたっているように思える。「私」は、「視野のなか」で、「卵」の表面をとらえて「コバヤシ」と名付けることで、「おどけ」たような関係性をとりむすぶ。けれどこれは表層のことだ。隠されている「コバヤシ」の内部を露出すること。

 描写をたどっていくと、最初、「ぼんやり」とした白い卵だったものは、「コバヤシ」と名付けられることで、「みたことのない一個」に変容する。注意すると、それ以降、卵という言葉は使われておらず、いわば言葉のうえでは卵は「コバヤシ」としかいえないものに変容したことが示されている。たぶん、この変容は「卵」の変容というより、みなれた現実がどこか異質のものにすりかわってしまったような現実感そのものの変容を暗示しているように思える。そうすると、「コバヤシ」を床に落とす行為というのは、そうして変容してしまった現実の打ち消しへの願望や衝動をあらわしているように思えてくる。こういう読み方からすると、変容して疎遠に感じられるようになってしまった現実というもの、すべてを地表にかくしたまま、表層だけで「おどけた」ような関係しかとりむすべないように感じられる現実というものを、日に晒された木の根のように、その内部を露出させる、という願望が、この象徴的な行為で暗示されていることになる。これはどこか死の願望に似ていて、作者はそこに落下していく「コバヤシ」の視点を書き加えることや、始発電車の音を書き加えることで、高架橋から路線に身を投げでもしたような投身自殺者のイメージをそっと重ねあわせているように思える。


補注)ところで、この詩集の帯には、この作品「コバヤシの内部」を下敷きにしたようなフレーズが書かれているのだが、それを引用してみよう。

一個の卵。
夜明けの薄い光の底に落してみる。
すでに終わってしまった落下の始まりが、
すでに始まっている落下の完成へと連続する。
     朝のやわらかい光の中で
     変形崩壊した存在の散乱様態へと、
     〈今〉へと。

 最初この帯のフレーズは当然、詩「コバヤシの内部」の一節を引用して転載したものだと思っていたのだが、上記の詩の内容と対照してみるとわかるように、作品の中にはこういう一節はない。そこで、これは誰によって書かれたのか、というのもちょっと興味をひかれた謎なのだった。というのは、もしこの帯のフレーズが作者によって書かれたのだとしたら、これは、「コバヤシの内部」で作者が表現したかったことの、別のバージョンのように読めるからで、また誰か他の人が書いたものだとしたら、その人の「コバヤシの内部」という詩についての解釈をふくんでいる、とみなせそうだからだ。「すでに終わってしまった落下の始まりが、すでに始まっている落下の完成へと連続する。」というフレーズは、作品「道」の最後にでてくる「あらゆる出来事は、すでに終わっている。」「すでに始まっている」という行からの引用をふくんでいて、時間感覚のゆらぎをテーマにしたその作品と融合されていることになる。「コバヤシの内部」では、落下のさなかに、コバヤシが、「真下」に「今を見すえる」のだが、この帯文では、落下後の「床に乱れたコバヤシの内部」が、「変形崩壊した存在の散乱様態」といわれ、かっこつきの〈今〉という言葉に重ねられている。こういう表現は、この詩集の作品を読む限り、別の人のものだという気がするが、実際のところはわからない。



註1)作品には直接「うつ」という病名は書かれていないが、抗うつ剤や睡眠薬の服用している描写のある「処方」という作品や、症状の寛解の度合いを数値にしたメモをとっているという記載や、「ひとつの死に近い病院への道順」という詩行のある「予後への走り書き」といった作品が収録されている。





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柿沼徹詩集『ぼんやりと白い卵』(2009年8月31日発行・書肆山田)






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