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随筆岸谷散歩



 岸谷に移り住んでから三回目の春を迎える。この土地は、東京と横浜を結ぶ大動脈とでもいうべき、JR東海道線、横須賀線、京浜東北線、それに私鉄の京浜急行線が貫通する、海側を生麦とする地域の山側、もっと詳しくいえば、その山側でも鉄道線と国道一号線(第二京浜)に挟まれた比較的狭隘な、起伏に富んだ傾斜地を町域とする。ちゃんと調べたわけではないのではっきりとはしないが、いくつかの痕跡に徴してみて、かつてここの一部ないしかなりの部分の住居表示が生麦に属していたらしいことがうかがわれる。

  夢三たび春あけぼのゝ寝覚め哉    解酲子

 三回目を迎えるとは言ったが、こんなにゆっくりと周りの春を見、歩き回るのはじつは初めてである。光陰の速さで消えた修羅のような仕事場の日々や、それにつづき、身構える暇さえなくてやって来た、否応のない覚悟を直ちに腹に据えざることを得なかった長い病の時間を割って、まるで経験したことのないものでも見るように、いま、つくづくと岸谷の春の中にいる。
 こういう題名だが、散歩を始めるのには、まず生麦の麒麟麦酒工場のビールを試飲することからが相応しい。今まではふらりと立ち寄ればいつでも自由見学という名目で、三百五十ミリリットル入りグラス二杯の麒麟ビールを無料で飲むことができた。むろん、私(および私と同程度に飲んべの荊妻)を含めほとんどが見学などせずに試飲コーナーへ直行したものだが、そのせいかどうか、不逞の輩が増えてきたらしく、「自由」な見学はこの三月で取り止めとなった。とまれ合わせて七百ミリリットルのアルコールはけっして少ない量とはいえず、ちょっとよい心持ちになったところで工場を後にすると、第一京浜沿い、「焼肉と中華」の北京亭のすぐ脇に生麦事件碑がある。
 石碑自体も百年以上を経過し、また目前の国道十五号線(第一京浜)の影響もあろうかと思うが、かなりの劣化を見せて、もう後しばらくももたないのではないか。それはともかく、けっこう香華を手向けられたみたいなこの石碑を眺めて考えるのは、やっぱり鎌倉以来の古蒼勇猛な雄藩の主である島津公のまえを騎馬で平気に横切ったら、それはまあ斬られても仕方ないんじゃないかなという気がする。それをネタに当時の金で十万ポンドを脅し取るというのは、幕府の弱腰という以前に、あのころから彼らがまぎれもない「ならず者」であったことのなによりの証左だといえよう。
 そこから山側に向かい、生麦の大踏切を渡って左へ三、四十メートルほどしたところに岸谷杉山神社の大鳥居がある。鳥居をくぐると、百級はゆうに超えると思う、はるかに見上げるばかりの石段で、これは上ると神域に直ちに至る男坂というべきか。そのむかし生麦の海から上がった石で出来ているという。対するに鳥居の脇に小径があり、これは石段よりはややゆるやかに境内に至るいわば女坂だ。このお社については、若いころ、少々調べ歩いたこともあり、言いたいことも別にあるのだが、一文の本題とは逸れるので、杉山社が鶴見川流域を中心とするエリアに四十数社あることを言うにとどめる。私はたいがいこの社への途を女坂にとる。坂のてっぺんの、じつにおちゃめと言うべきお嬢さん方を数多く擁するH大学女子高校門前の、警備の方の鋭い一瞥を浴びながら、その先の境内に入る。
 岸谷の杉山社がこの地に遷座したさい、本殿は現在の舞殿の位置にあったという。たいていは戸を立てているけれど、かつては里神楽、今は土地のおばさんなんかによるカラオケ舞踊などが、祭の折、おこなわれるのであろうか。

  舞殿になほいまそがる花の影    解酲子

 神域は岡のてっぺんを平らに削ったような印象だ。向かって正面に本殿と、いま言った舞殿が並んで立ち、海を背にした左に二、三の祠がある。ここいらの神社にあって当たり前の小稲荷社は当然に見えるが、なかで道念稲荷という小祠が目を引く。道念は比較的大きな辞書で引いても、僧侶の妻、いわゆる大黒さんを意味する道念さんや、元禄ごろにはやった道念節の道念山三郎しか見当たらないけれど、この道念はそれと関係あるかどうか。古くから生麦道念稲荷神社名物の祭礼である「蛇も蚊も祭」(じゃもかもまつり)に因むものらしい。詳しいことは調べていないが、この祭礼は、毎年六月の第一日曜日、藁を縒った巨大な蛇形のカタシロを担って町内を練り歩くもので、夏の災厄退散を願うかの中臣大祓の式といささかの関係は持つものであろう。
 社殿に向かって右には、先の大戦、というより先の十五年戦争で戦没した、生麦村ほかこの一帯の若者三百余柱を祀った、小さな鳥居付きの小社がある。十五年という長きに亘ったものであるにせよ、合わせて三万人もいなかったであろう当時の人口の、それも若者ばかり三百余人という実数は尋常でない感じがする(ちなみに、平成十二年度の生麦の総人口は一万三千五百六十七名である=「鶴見区町別年齢別人口」より)。全員の姓名と、それから写真のある者はその生(というのか)写真を掲げてあった、そのうちで意外だったのは、なかに女性のそれも交じっていたことだ。考えてみれば当然のことで、野戦看護婦のような役柄を想像するが、数日前のテレビ報道で女性自衛官(薬剤班といっていたが)がサマワに到着したとかこれからするとかいうのがあって、時代は変わっても戦争とはそういう、変わらないものなのだとの感を深くした。それにしても、時代がついて、褪色し、劣化し、腐乱したようにさえ見える、百葉を越すこのセピア色の写真群には鬼気迫るものがある。ついでに言っておけば、このお社の扁額(というのか)に筆を揮ったのは靖国の宮司さんだそうだ。

  海坂に白木蓮のしんかんと    解酲子

 下りは男坂である。下りのとっぱなの鳥居や手水をはじめ石段の途中にもさまざまな石造物が認められ、その銘などを見ると覚えのある名前に出合った。石工飯嶋某というもので、彼の名は他の杉山社の石造物にも多々出現する。現在の横浜市の、鶴見区、港北区、神奈川区、都筑区あたりに多い。ただしこの岸谷杉山神社における年次は明治十年代、ほかは天保時代であったり、溯れば文化年間であったりするから、この飯嶋某は代々世襲されてきた名跡であったみたいだ(東横線菊名駅の近く、大豆戸町の岡の中腹の不動堂の石造物には、文化年間に刻まれた「鶴見村石工飯嶋吉六」なる銘がかつてあった)。
 下りは男坂と今書いたけれど、それは通常のコースで、この想像の散歩ではふたたび女坂側に出て、杉山神社の裏側に下る。言ってみれば谷間(たにあい)だが、散歩者にとっては、上り下り、坂に次ぐ坂という印象である。記憶は曖昧だけれど確か「危険傾斜地区」といった意味の表示が出ている一角があり、そこは例えば建仁寺垣や冠木門などの設えのある古いお屋敷町と言っていい。ただし、廃絶しかけた、と書けば言い過ぎになろうが、なんだか二代目三代目の気配のない、刻々と朽ちてゆく時間ともいうべきものがあって、それが、この町に目立って多い椿や椎などの常緑樹のすさまじいまでの繁茂の影におおわれているのである。だが、ここでははるかむかしに嗅いだことのある、土の匂い、落葉の匂い、木の匂い、花々の鋭い匂いが醒めて見る夢のように立ち上っているのが、なんだか信じられない。あの泰西の巨人における、Japonの水中花がひらくさまのように、一顆のマドレーヌの匂いからたちまち精緻によみがえる、古い古い記憶のように、か。
 子供が縄跳びをしている銭湯の路地からバス通りの三叉路に出ると、旗指物もにぎやかな庚申塚がある。庚申塚や庚申講の解説はいろいろあるようだが、散歩者としてはこういったものが三叉路や丁字路、橋や坂に存在するということの意味をやっぱり、少し重く考えてみたい。沖縄や南九州、それに台湾にも存在する石敢当(いしがんどう、せきかんとう)は丁字路やそれに相当するポイントに魔除けとして置かれる紋章だが、この魔というものを悪としてでなく、強い霊力のはたらきとして考えるのなら、例えば中世の律宗の僧が、川の渡しや、津という名の海港、また橋などに関を設けて通行料を徴収したという事実*も、純粋に経済的事由にばかり拠るものではないことが思われる。石敢当のことをいうのなら、庚申塚から数百メートルのところに急峻な坂がある。坂に直交するように枝道が分かれている場所がみとめられるけれど、ちょうどその丁字の突き当たりのコンクリート塀に、誰のしわざか、素人の手描きによる進入禁止の朱色の交通マークがしたためられていて、地面には三、四基の賽の河原みたいな石塊が積まれている。以前は何かの神璽みたいな紙まで飾られていたのだが、これなど、まさに今まで述べてきた思想と軌を一にするものであろう。私の体験ではこれが、那覇の沖縄三越の壁面にあった石敢当の思い出とかさなる。国際通りに面した三越になぜ石敢当がなければならないのかというと、それは国際通りを隔て、直交して牧志の公設市場に向かう通りがあり、その線を延ばすと丁字の「一」に相当する位置にちょうど三越(の石敢当)が当たるからである。けだし霊力の発生いちじるしい場なのであろう。ここ鶴見岸谷のお手製の石敢当がある坂は、南の陽光が降り注ぐ那覇のそれと違って、鬱蒼とした樹林におおわれているのだが。
 そろそろ日が傾いてきたので、「石敢当」から歩いて五十歩に満たない鮮魚「魚徳」で今夜の魚を買い求めることにする。したたかな歯応えを持つ白身の鯛や平目は、ここのところ通常に置いてあるようだが、鮟鱇は肝がだいぶ痩せてきてことしはもう終わりだろう。目張や鰆は今を盛りの春と言ってよく、濃やかなうえに脂が乗ってきた。あとひと月もすれば生シラスが入るのではないか。うちではこれを刺身ではなく、パスタにして食する。ニンニク、オリーブ油、鷹の爪を熱して白ワインを振り、生シラスを入れたらゆであげのスパゲティーニと粉チーズを一挙に和えてアサツキを散らす。なぜか、こうした仕事をした方が生シラスの風合いが生きるような気が、私にはする。味わいはまさに生クリームといってよい。合わせるのは軽い赤ワインでもいいけれど、からくちの清酒も捨てがたい。
 わがマンションの立つ坂を、また上る。振り向けば真西の疎林ごしに、沈んだ金泥のような夕映えが降りている。花の匂いと入り混じりながら。

  けふのみの春をあるひて仕舞けり    蕪村



*田中由人「ボサツになった忍性」(『索』24号2001年4月6日所収)による。







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