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北窓
――入院日記抄



 診断
死と隣る告知をまへに酒を酌みたばこを呑みてあはあはと過ぐ

まへをゆきうしろに従きてわれを守る妻はここだに愛(かな)しかりけり

内視鏡わが肺ふかく入りしかばこの苦を妻はともにさや見き

いくばくもあらぬ地平ははるかにて立つ朔風に生きめやもいざ



                                      02/1/20

 入院
きさらぎの来向ふ光あはくしてこの街の西に不二の嶺みゆ

この棟にやさしき檻は張られゐぬ囚はれたりと思ふことなく

やがて来る治療のむごさ思ふなくまたおだしくも時は流るる

涙声の若きナースより目を逸らす生に倦みたる人のごとくに

入相の歌は流れてこの部屋はつひにとどまる旅舎ならなくに

しかすがに家帰りたき時を堪へ帰らばさらにいづち還らむ

 同じく肺に腫瘍を持つK氏と面識を得る
どことなくましらめきたる眼光のこの老にして死に揺らぎたり

吾の年を四十八とは知りて言ふまだ若きかなまだ早きかな

 蕪村書簡集を読む
夜半亭読めばつねある愚老無為京師の春はうたた明るく



                                     02/1/29

ひむがしに窓ひらけたる病棟は日の出の色に濡れにけるかも

ボルヴィック家居のをりと変はるなく間なく時なくわれをうるほす

けざやかに今日の紙面を披くかな朝影ふかき喫茶室にて



                                      02/1/30

 抗ガン剤点滴開始
手首より薬液徐々に入りしかばいかなる機序の闘はむとすらむ

 コバルト照射開始
快晴の日々はつづきていましわれにコバルト照射は始まらむとす



                                     02/1/31

 きさらぎ朔
病棟の窓ゆ東を眺むれば春はあけぼのきさらぎの空

同室の老は寝間着をたくしあげ蛇腹のごとき傷を見せしも

同室の老は毒言つのりつつ昼はうつつに鼾かきける

 経皮針生検を待ちながら……狂歌・東邦大学病院梁(りょう)先生
あづまがたわが国手なる梁医師は胸のうつばりはやとらせたまへ

俎板の鯉めきて見るさうじみに麻酔霊験あらたかにあれ



02/2/1

外泊にあくがれいづるこころかなまた旅舎に魂を横たへるとも

この先に治験のつらさ来ることを医師は閑(しづか)なる病室で告ぐ

抗ガンの薬を入れし五日へて造血作用やや落つと聞く

たっぷりと抗ガン剤は入ると聞くわが体格のうたてきか否か

心身のやや異和なるを覚ゆかな投与ののちの五日へぬれば

 十九時、由利帰る
夕されば家路をたどる吾妹子(わぎもこ)の闇路の姿まなかひにたつ

家にあればひたにうれしき吾妹子とえにはしきやしをりもありしを

身のうちの怯懦の魂に眼を凝らすガン病棟に週をへぬれば

高くもつこころさすがに萎えるをりさねさし相模の海見たきかな

つひに還るか否かへるには早きかと見えぬいさかひのゆかしくもある



                                      02/2/4

 窓外
午後にして街は奇体な光さし雨降りだしぬと見舞客告ぐ

コバルトを朝照射せば一日(ひとひ)をはる後はすなはち仮死をふるまふ

体温はやや高くしてうつうつと一日はゆかば楽しくをあらな

倦怠はやがてあらはれ身のうちにコバルト深くとどくあかしか

友くればいかにこころのうれしからむさはれこの世のいかに愛(を)しからむ

いつとなくぬばたまの夜近づけば安ら家居をしのに思ほゆ

家にあらば壁に背もたれあふむきて思はむことを思ひつくさむ

家にあらば吾妹子のけはひしるくしていかにほだしの愛しくありけむ

われと妻の手馴れの家具にかこまれて雨を聴くのも心澄むものを



                                      02/2/5

 和田彰の夢を見る
長き夜の夢のあひまにわが見てし狂せる和田があひに来しかも

高みより音楽のごと陽は降りていっせいに街は濡れふるへたり

軽微なる嘘とまことを織り交ぜつ同室の老は問診にこたふ



02/2/6

 喫煙室で話しかけられる
生き急ぐわが少壮を思ふかな末期患者と対話しをれば

病室にうたて匂ひは立ちこめて朝飯を食む生まぎれなし

アヴェ・マリア怪異におぼゆこころあり宗教音楽を鋭くいとふれば

晴れるとも降るともなくて光にじむ春の中なるこの街の空

 敏生逝って五年
人生は寂しき祭りに似てゐると夏際敏生にわが言ひしこと

にんげんの一期は夢かしかあれど何を醒むるとわきていひけん



                                      02/2/7

 外泊の日の朝
ひむがしは葡萄のいろに明けそめて空の半ばに残る繊月



                                      02/2/8

 隣の見舞客一団
人生のおほかたのことひとしきりののしりあひてやがて帰れり

 夕ぐれ
ガン腫瘍縮小すとふ報告を聞きて見放くる東京の空



                                     02/2/12

旬日を経てやコバルトとどくらむ喉に砂漠の火を感ずれば

 駿河昌樹氏より、文。封筒に署名なし
駿河なる宇津の山辺のうつつにもほのか便りのとどくなるらむ



                                     02/2/13

人生に水のごときもしるしおかぬはかなきわざを歌といふめり

東国はわが郷党と思ふべし不二のかんばせ今朝もまた見る

京浜の昼たかく行く千切れ雲いかなる海に雨と消(け)ぬらむ

いとどしくソルトレイクの凍て空に亡国めきて振れる日の丸

 深夜、ストレッチャーの行く音に耳を澄ます
百代の過客は往きぬ病室に隣る廊下もまた道にして



                                     02/2/14

治癒と不治と夜の思ひはゆらぎたれどこころは生の側にありけり

 二月末日に腫瘍が半分以下になっていたら、手術
おほいなる壁のごときがふたがりてきさらぎ尽にその果てを知る

ほのあをの紙に見慣れし文字の来て駿河は霊のことを語らず



                                     02/2/17

 夢三首
病みてより見し夜の夢は殊なるか深き森羅をひとりさまよふ

絶対にこのことだめとひそやかにかつ森厳にたそわれに告ぐ

息継ぎをけっしてしてはならぬ海に息継ぎしたるわれ過てり



                                     02/2/18

病棟の窓ゆさしくる朝光(あさかげ)にあらゆるものはきらめきて見えず

水先のごとくあと従きてわれ行かん点滴棒によろぼへる影に

新聞をいつかいとへる心つきぬ記事を幽かにあだごとと見れば

 ニッポン、チャチャチャ
バビロンと同じき秤は傾きぬひとつの国の亡びんとして



                                     02/2/19

 喫煙室で納得できないこと
動きえぬ篤き病者に末期者はおのが苦患を言ひおほせける

人ならぬ人の生をや腐すべきたとひ死の淵たたへたりとも

 十四時、由利帰る
携帯のほそき口よりつのりゆく吾妹子の声聞かば春雨



                                     02/2/20

ビルの陰は風吹くごとにきらめきて光の春とたがいひそめし

 昼食はスパゲッティミートソース
おはなしにならぬパスタの食味もて検査待つ間の昼過ぎゆきぬ



                                     02/2/21

ただひとり林檎を剥きて食らひたる昼のさなかをわれ黙したり

醒めやすき昼寝の夢のうつろひて斧の柄朽ちるごとき須臾なる

 川の向こうが東京
家居にて入相の歌またも聞く川の向ふは夕靄にして

甘きものいつし欲りたる身となるか思へばゑひも一瞬の火箭



                                     02/2/24

北へ向く窓にひろがる東京の空はけぶりておほいなるかな

北に見る窓かがやける街並みは海よりほかのひかり射すなし

くだものにほとほと飢ゑし時ふれば苺三十むさぼりにけり

「ポルテ」とふはかなき菓子をあがなひて舌に甘きもさびしかりしか

 北の窓から見えるのは南より来る光
コバルトを待つ間凭るる北窓(ほくさう)にやよひに近き光ふりつむ

激痛も嘔吐もなくて胸に吊るるこのガン腫瘍もだせるは何ぞ

診察も採血もなき午後深み伽藍のごとき空に坐しゐる

末期なる老は痛みに呻くゆゑ明日転院の明るみへ去る

見知りゐる喫煙室はうたてきか不治と治癒との人し隣れば

高層のラウンジにして吾妹子とこの東京の空を見しあり

 岡井隆のこと、ふと
戦後派も団塊の群れもいちやうに明るき淵へなだれたる何故

手燭もてひらく未来を信ぜずと嘆かふひとも歌会の栄

このひとの深く抱ける絶望のうたたかろきに似たるあやふさ

かつてなき時代など疾うにありえぬと明き亡びの人々を念ふ

精神の健康をいふさらばあれ奇怪なまでに陰影(かげ)のなきかほ



                                     02/2/25

大空は春のけはひにくもりはて誰か沈丁の香を知るといふ

 昼飯はソース焼きそば――狂歌
おはなしにならぬ三度のめしを食へどまたも因果に腹は減る也

仕事場に修羅のごとくにたち交じる昨(きそ)の代すべてかすみけぶらふ

老人をはつかいとへる心おぼゆ傍若無人はなべて若きか

うなゐ子のごと見まく欲りわがしたる東京タワーこよひ霞めり



                                     02/2/26

彼方より日はほのぼのと明け離れむら雲の縁くれなゐに染む

明け空に影ただならね東京は鴉の御宇となりにけるかも

春の塵おきまどはせる舗装路を見えぬ空より濡らす春雨

明けの夢にわれにすがれと声のしてただひた泣きに眼ぞぬれて覚む

現象に意志のごときはなきあらんか不思議の夢のさやにつづけば

 梁先生、治療効果顕著、タバコはやめよ
如月の尽日をもてけむり絶てば三十年の紫紺たなびく

病巣は半ばになると医師のかざす胸部写真は北窓に透く

ガン腫瘍半ばになると聞きてより飽かず眺むる東京の空



                                     02/2/27

音もなくやよひに近き雨降れば街はほのかな朝影となる

裸身をコバルト室にさらしをればBGMは鳴る「TENDERLY」

つぎつぎに退院しゆく多かれどわれに流謫の春はけぶらふ

 十九時、由利帰る
梅屋敷のひかりさびしき遊歩路を春雨に濡れ妻かへらむか

 K氏、胃に転移との……
さびさびと転移宣告する医師の「私的に」とふ若さかな

 月曜日、治療方針開示
CTの出す真相を懼るれど逃るかたなくまなかひに見む

よき人は帰らずといふフランクルの言葉は深くこの夜に沈む

かなしみてつばさの櫂の深沈とこの夜を行くあまつかりがね



                                     02/2/28

手術とは希望とも言ひ換ふべしやこの夕ぐれにそのことを聞く

なかなかに晴れ間のささぬ三月のたゆた心をいづち遣るらむ

なかぞらに黒き鴉の遊弋を吉凶となく追ふまなこあり

いつとなく日は暮れゆくか大空のかたへ茜のさす雲のありて

彼は胃にわれはリンパに転移とを世間話のやうに嘆かふ

根治なき病なりせば老は時をわれは若きを深く見つめる

この夕べさやに聞くべき実態の告知は闘争宣言となるか

紫煙なく夕食も来ぬこの夕べ心をどこに打ちて過ぐさむ

デイルームの夕餉はかなき膳に載す鰊ははらに子をもたりけり



                                      02/3/5

 明ければ、雨
大空はしとどのこゑもなく暗く明くれば雨の梅屋敷かな

 五月を懐う三首
何ゆゑに五月の思ひ身にたぎつ木の下愛(かな)しその花水木

遠く近く葉むらを透かし陽の射せばいかに五月の空をしからむ

生と死のもともかげ濃きはつなつの五月半ばにわれは生(あ)れにき

昼過ぎてそらはろばろと霽れゆけば弥生はあはき日の下の街

つねに死と向きあふとしもなけれどもナースらの耳死に聡きかな



                                      02/3/6

大空は春のあはさに満つれども煉獄に似しそのあはき影

 午後五時の鐘を聞く
泰西画の夢みるやうな夕景のなほ慕はしきにせものの空

 昨夕、長谷川来る
金くれてわれら老いぬと独りごちて長谷川はさむき春宵を帰る



                                     02/3/12

病巣はあきらけくして世の人とわれのさかひをなす河のあり

夢に見る最期の食はたけなはの昼めしどきの定食の膳

 梅屋敷商店街は、長い長い
にぎはひと黄落の翳かさねつつ商店街はつづく冥府へ



                                     02/3/14

 外泊途中、花を見て。西行、吉野山さくらが枝に雪ちりて花おそげなる春にもあるかな 、を思う二首
いつとしもなくこの春は疾(はや)くしてこころは花に後れぬるかな

奥村といつし酒酌む約をせむ花と知りせばとく行くものを



02/3/22

 手術、四月二日に決まる
やよひ尽そらの彼方にOPEを終へいとしき街にまたも帰らん

これほどに鶴見の街が恋ほしとはわが荒魂の奥をあやしむ

街並みは鶴見の空につづくらむ家居のあたりとくかぎろへば

吾妹子の待つ谷戸の方(へ)に魂は飛び夕餉の酒をいそぐならむか



                                     02/3/31

 四月二日、手術終える
鉄塊の暗く入り組む作業場に春の溶接ひらめきやまず

OPEを終へ剪りとられ去る肺ひとつ春暁の濤見ぬ海に騒ぐ

またも夜をきらめきふるへつつきたる機影孤独に羽田へ沈む

夜は夜とてつね春風に沈むめりかなしきまでに恋ほし鶴見は

かくやくと丹沢を背に影は冴ゆ池上でらの堂のいらかは



                                      02/4/5

 立呑み「やぎちゃん」を想う
やぎちゃんの灯は春風になぶられてこよひも酒は熱くあらむか

われのゐぬ如月弥生いつのまに鶴見は春のさびしさにある

 狂歌――鶴見駅東口、居酒屋「天狗」で労務者風に
われに出す酒はなしとかそれならばあれなる天狗店長を呼べ!



                                      02/4/6

 退院の日程、具体的に
玄冬の三月にわたる籠りへて青めざましき退院のころ

東京はたなびく雲にかすみしを青葉若葉の時は来にけり

生きもせず死にもせで見る新緑のにはかに近き退院は来ぬ



                                      02/4/9

 退院の日に
胸の内の腫瘍はもだすそれゆゑに命をののくままの退院



                                     02/4/13




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