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美しい混沌――『植物地誌』について



 関富士子の散文詩集『植物地誌』(七月堂刊)は昨年の『女−友−達』につづき、一年というきわめて短いスパンで刊行された書物だけれど、収められた散文詩群そのものはもっと長い、年単位で営々と書き溜められた、種蒔き・水遣り・草取りといったていねいな作業の結実といえる。個々発表された現場であるそれぞれの詩誌ではいわば硬い殻を被り、容易にその甘い果肉を見せなかったものが、こうして一堂に会し、世界に突きつけられた花束(清水鱗造の言葉)として全貌を現して、作品のひとつひとつがその秘密を開示したことを、私は祝福せずにいられない。
 詩集の言うなれば相貌といったものは、その「植物地誌」というタイトルとともに、国土地理院の2万5000分の1の白地図を用いた装幀のうちにもっともよく現れているだろう(地図は彼女の故郷の辺りだという)。詩集のどこからでもいいのだけれど、たとえば「相貌」の端的な例として冒頭作品を引いてみる。

 あなたの書斎の窓に立つ雌雄同株の落葉高
木。若木のうちは肌の色が赤褐色か灰褐色で、
てのひらもぎざぎざが粗い。
 6月に獣の尾状の花序をつける。花被のあ
る雄花を上腕にさげ、むきだしの雌花を下腕
にかざる。泥炭地に住む土神たちが代わるが
わるやってきては、はちみつ色の滑らかな幹
をだきしめる。
 実には翼のあるものが多く、深山に飛んで
いって林をつくる。皮つきの材はよく燃える
が、樹皮は紙状にはがれる。秋には、おびた
だしい樹皮があなたの机に積まれ、冬じゅう
白紙のままである。(「カバノキ」全文)


 これについて植物を喩とした何事かの記述とか、「擬論理詩」とか言うこともかまわないけれど、けれどそういうことを言ったところで、関富士子が「何」を語ろうとしているのか、目指しているのか、必ずしも明らかとはならない。記述めかした何事か、論理と幻想が入り交じり、何かが出現しそうな何事かが起こっていることはわかる。その「詩的」あるいは情緒的な表現に関しては途轍もなく禁欲的で、同じくらい禁欲的なことがひとつの快楽であるような、性的ですらあるものの匂いがここにはたちこめている。その同じものを見た眼がときに禍々しさを呼び起こすような光景を映し出して見せることも、これと無関係ではない。快楽はときに悪夢に近しいことがあるものだ。

 硫化水素を含む濃い霧が風しもに流れて空
が晴れ、間欠泉の噴出がやんだ真昼のつかの
ま。
 腰に命綱をつけられ、礫地のはずれの断崖
に立つと、やにわに背中を押される。二〇度
の勾配を小石とともに滑り落ちて、ようやく
止まったところに熱湯の流れる小川がある。
真っ白に立ち昇る蒸気で水面は見えないが、
静かな流れの音がする。小川の両岸には帯状
に繁茂した暗紫褐色の草が、谷間の奥までつ
らなっていて、ほかには何も生えない。
 ぐずぐずしていると霧が谷間に降りてく
る。毒にあたったミツバチが川原のあちこち
に落ちている。(「オランダガラシ」より)


 オランダガラシとはクレソンのことだが、別してこのあたり、私は次のような「語り」を対比して思わずにはいられない。文節文節を読んでゆくとき、共通して感じられる明晰な抵抗感とでも言えばよいか。指示語と指示物はくっきりと脳裏に刻印されるのに、いわばいっさいの陰翳を奪われている。まるで白地図を想起させるかのような感じ。

(前略)敵は合図とともに四方から駆け降り、石や重槍を堡塁に投げつけた。味方も最初は士気に溢れて勇敢に抵抗し、一つのテラ(投擲物)も無駄なく高所から投げつけ、陣地のどこかが守るものもなく、圧迫されていると見ればそこに集って援けたが、戦争が長びいて戦闘に疲れた敵が退いて別の士気に溢れた敵が続いて来ると圧倒され、味方は少数のため同じようなことができず、戦闘に疲れたものが退けないだけでなく、負傷者までがその持場を離れて回復をはかれなかった。(『ガリア戦記』第三巻四、近山金次訳、岩波文庫版)

 この感じは詩集の「もくじ」を開くとき、さらに明瞭なものとなる。わずかに44ページ「メンデルおじさんの野菜畑にて」を除く、すべての作品名が一語の植物名、しかも片仮名によるのだ。冒頭の「カバノキ」から「マクワウリ」「ヤマグワ」「ヒナギク」「オランダガラシ」「トケイソウ」「ニワトコ」「レンゲソウ」と、さいごの「ツユクサ」までつづく。
 関富士子は自身のホームページでも書いていたが、植物の名を片仮名であらわすのに特別な意識があるようだ。思えばこの表記は学術的な表記なのだった。奥付のまえ、さいごのページの注記によると「文体および語彙の一部は、日本百科大事典別冊原色植物図鑑」のものなのだという。ここで散文詩の客観的な感じ、明晰であって陰翳はないけれど、決して抽象的なものではない、あの感じの理由がわかる。彼女は心の底から植物が好きなのだ。植物は関富士子にとってよりネイティブなもの、根にある「自然」(それへの畏怖を含んだ)に近い世界なのだと思う。それゆえむしろ、植物を片仮名の純粋な名辞の方へ解放させることによって、樺木や真桑瓜や山桑、蓮華草といった表記がいやおうなく抱え込んでしまう固有の通念から、関富士子は逃れたかったのだろうと思う。これは彼女自身、ホームページで言っていたことでもあるけれど。
 それは、植物から一切の幻想を排斥しようとするものなどではなく、関富士子であったり、私であったり、あなたであったり、それどころか豚(「バラ」参照)や精霊たち(「フユイチゴ」参照)であったりするモノたちが嬉遊する庭をつくるための欠かせない操作なのだと言える。『植物地誌』においては、世界のなかに、ある喩として植物が現象しているのではない。そうではなく、喩というものがついにそこに帰って行くべき場所として、植物のなかに世界が現象しているのだ。
 『植物地誌』のうちには、さまざまな行為、記憶、出来事、寓話が籠められるのだけれど、それらへの視線、視点といったものは、私やあなたやの近現代的な主体、個性というものとはすこしく異なったもののように感じられる。『植物地誌』を読んでゆくと、どこかで性とか(失礼があればお詫び)、時間とか、彼我の区別を超えてゆくような閾(いき)がある気がする。いわゆる無我の境地というのでもない、あえてあらわすならハイパー主体とでも言うべきか。これは、すぐれた詩なら必ず併せ持つ属性のようなものでもあるが、以下を見てみたい。

 広葉樹の、枯死した木管楽器に群生、また
は孤生する集音器。倒れて朽ちた木でも、木
管であればよく展着する。耳たぶは膠質で脈
状のしわがあり、外面は赤褐色である。
 鳥の叫び声、岩場を行く足音、落ち葉のか
さつき、獣の喃語、せせらぎの音。どんなか
すかな物音も集音器によって漏らさず拾わ
れ、木管の体内の、虫や鳥や小獣によって穿
たれた空洞にみちびかれる。
 耳たぶは食用菌。胞子は腎臓形で4室に分
かたれた円筒形の小部屋にそれぞれ付く。
 死んで耳たぶを生やした木を見つけたら、
そのそばにたたずんで自分の耳を澄ますだけ
でよい。水が一滴したたる音が、風とともに
洞をめぐり渦を巻いて増幅され、幹の穴から
美しい音色となってふたたび聞こえてくる。
 長いあいだ死に続けて、朽ちた枝や幹の全
身に、集音器を展着させた巨木もある。たく
さんの耳を八方に傾け、あらゆる物音を聞い
ている。強い風が吹く夜には、木管楽器の体
内に森じゅうの音声が集まって、渾然として
深深と重なりあい、幹から吹きだして辺りに
交響する。
 その音楽は、森からはるかに遠い街でも、
眠る人の耳に一晩じゅう鳴り続けている。
(「キクラゲ」全文)


 キクラゲと耳、倒木と木管楽器、さらに媒介物として集音器が混じりあい、美しい音楽となって、喩として、あるいは作品としてのみごとな着地を見せているが、これらは詩の技法としてはモダニズムが開発したものと、通常は考えられるし、関富士子もモダニズム系の『gui』の詩人だからそれは当然のことと受け止められるだろう。私はモダニズムを否定する立場ではないのは勿論のことだけれど、ただモダニズム以前とモダニズムそのものを対立するものとは考えてはいない。さらに言えば現代詩と近代詩、近代詩と近代詩以前を対立させて考えても不毛なのではないかと思う立場だ。それはさておき。
 この夜の森で起こっている美しい混沌を示されるとき、いまやほんとうに苛烈なものとなってしまった「日常」というもの、この世界というものから、人が詩に立ち帰り、詩がさらにそこへむかって立ち帰って行くような原初の場を感じる。主体が混沌としているのではなく、混沌を、そのものとして精密に映す研ぎ澄まされた主体が感じられる。耳はキクラゲの、木管楽器は倒木の喩であることを離れて、つまり喩えと喩えられるものとの関係を脱して、両者出入り可能で等質なものとして、彼我の差を敢然と超えてゆく美しい音楽が、「森からはるかに遠い街」で眠る人の耳に、一晩じゅう鳴り響いているのだ。
 ところで、最近読んだ本のなかにこんなくだりを見つけた。

(前略)粘菌は植物とも動物ともつかない生物で、二つの領域を入ったり来たりして生活しているユニークな生物である。神話的思考の中では、通常の論理では分離されていなければいけないはずのものが、異質なものどうしをつなぐ深層の共通回路をつうじてひとつに結びあわされてしまっている。そして『華厳経』の中では、どんな小さな部分にも全体が映し出されるようにして、宇宙は壮大な全体運動をしているという思想が語り出されている。(講談社選書メチエ、中沢新一『対称性人類学』より)

 中沢新一は、ネイティブな伝統社会における人とたとえば熊、部分と全体、瞬間と永遠のあいだに区別を設けない思考を対称性思考と呼び、われわれの心における神話的な深層の共通回路をそこに見る。対して全体から部分を峻別し区分し組み上げる、西欧から発し世界を圧倒的に被うまでに至った思考法を、ある意味で否定的に、非対称性思考と呼ぶ。さっき言った「いまやほんとうに苛烈なものとなってしまった」日常とは、また世界とは、これは私たちの非対称的現実と考えるほかないものだ。すくなくとも、中沢新一の次のごとき言明に関しては、どんなに大きく見積もっても、小さく見積もっても、正論と言うほかないだろう。

(前略)神話の中でかつて強力な働きをおこなっていた「対称性の論理」を復活させることには、今日大きな意義があります。それは、私たちの暮らしている世界をつくりあげているのが非対称性の特徴をもつものばかりになってしまい、その世界の内部にいるかぎり経済から国際関係にいたるまで、あらゆる領域で非対称性の原理による活動が、あまりにも過度になって、人間の世界に取りかえしのつかないようなバランスの崩壊をもたらしつつあるからです。(前掲書)

 このような世界のなかで、人は詩に立ち帰ってゆかなければならず、詩もまた人を連れて立ち帰ってゆく場所を持たなければ、ほんとうはもう誰も生きて、やってはゆけない。中沢新一の論法によれば、「新石器時代以降変わらない」音楽は、森からはるかに遠くなってしまった私たちの街でも、耳を澄ませば、美しい混沌という名の夜のあいだじゅう鳴り響いている、ひとつの希望とも言い換えることができるはずだ。それはたぶん新しい神話に似ている。おそらく関富士子もこの『植物地誌』で、そのことはじゅうぶんに意識している。

                          04/10/3~4







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関富士子詩集『植物地誌』(2004年9月30日発行 七月堂・1000円)

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