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世界の内と外――ウィトゲンシュタイン・ノート



 今回折があって、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を読む機会を得た。これを初めて読んだのはもう三十数年前、法政大学出版局の叢書ウニベルシタスシリーズ、藤本隆志・坂井秀寿訳のもので、わけもわからない闇雲な読破であったことは今回の野矢茂樹による新訳の岩波文庫版におけるそれとさしてちがいはない。ないのだけれども、いま読んで新鮮に思えたこと、新たな発見に類するものなどがあって、読んでいてすこし興奮した。それらのことを思いつくまま、少々書き流しておきたい。



 『論理哲学論考』(以下「論考」とする)について、まえから気に懸かっていてうまく言い表せなかったこと、それは世界の内側と外側をウィトゲンシュタインが表現するさいの、身体を裏返らされるみたいな感覚である。たとえばこんなふうに。

世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている。(1・11)
なぜなら、事実の総体は、何が成立しているのかを規定すると同時に、何が成立していないのかをも規定するからである。(1・12)

 世界が諸事実によって規定されているということは誰にも首肯されることだろう。のみならず、「世界」と言明した瞬間に、庭木や電柱や夜や空という具体物を超えるのでなく(なぜなら世界を規定するものは諸事実なのだから)、また具体物一般という抽象性でもなく、実数に満たされた、たとえばそのうちのひとつを任意に取り出してただちに指し示しうるような、「すべて」と言うよりほかないことに思い当たる。
 抽象的なものはこのとき、変な言い方だけれど具体物と考えられているのだろうか。たとえばy=f(x)というものはどうか。庭木や夜といったものと同じであろうか。この式が成立するとすれば、これは世界にとり具体的な「諸事実」のひとつである。他方、これが成立しないものならば事実の見かけを持った、記号の集合としてのやはり「諸事実」のひとつなのであり、また、式が成立しうる場合でも見方によっては記号の集合という側面を有する。
 簡単にこの間の事情を述べるとすれば、式が成立しているとき、これを有意なものとして見ているときには、無意な記号の集合という側面は排除されている。逆に、式が成り立たないと見ている目は「成立しない式」という写像が(心理的には)たゆたうだろうけれど、しばらくすると有意性の観点から世界のなかのしかるべき場所にこの式は位置づけられて行き、この世界のなかにおける対象としてはやはり一群の無意な記号の集合そのものに戻って行く。このとき、式としての有意性は排除されるといえる。両立はありえない。どちらかが成立しているとき、他のものは成立できない。
 この排除の形式、これが「事実の総体は、何が成立しているのかを規定すると同時に、何が成立していないかをも規定する」ということの意味をなし、それを鋭く特徴づけている。私が身体を裏返らされる感覚と呼んだのも、こんなところに理由が見出される。



 これと同じことを「論考」ではこうも言う。

非論理的なものなど、考えることはできない。なぜなら、それができると言うのであれば、そのときわれわれは非論理的に思考しなければならないからである。(3・03)

 あるいはこうも言う。

(…)――つまり、「非論理的」な世界について、それがどのようであるかなど、われわれには語りえないのである。(3・031)

 こういうところに、世界の内側にいるわれわれが、世界が尽きる限界(それはあくまで内側からのものでしかありえないが)に仄かに衝きあたる感覚を覚える。当たり前のことといえば当たり前で、じじつ、トートロジー(pまたは非pでない=pが何であっても真)と矛盾(pかつ非p=pが何であっても偽)が両端を成す世界が「論考」の世界でもあるのだけれど、このことはユークリッド的な「厳密さ」というのとはすこしちがう、われわれの認識の根幹が揺らぐような感じがある。ひとことで表すならその「逃れがたさ」とでも言おうか。

視野内の斑点は必ずしも赤くある必要はないが、しかし色をもたねばならない。いわばそれは色空間に囲まれている。音はなんらかの高さをもち、触覚の対象はなんらかの硬さをもつ、等々。(2・0131)

 つまり「およそ空間の外に空間的対象を考えることはできず、時間の外に時間的対象を考えることはできない」(2・0121)のは、われわれは諸事実のすべてである世界の外側に立っては諸事実、つまり世界を考えることは不可能であることを意味している。これから導かれるのは、世界内の諸事実をかくかくであると語ることはできるけれど、それが(世界というそのものが)何であるか、は語りえないということだ。すなわち、「命題はただものがいかにあるかを語りうるのみであり、それが何であるかを語ることはできない」(3・221)のである。これの避けがたい構造を別の面から言う。

「複合記号「aRb」が、aがbに対して関係Rにあることを語っている。」否。そうではなく「a」が「b」に対してしかじかの関係にあるという事実が、aRbという事実を語っているのである。(3・1432)

 なんでこんなまわりくどい言い方をするのか。これは言語というものの基本にかかわることだからである。たとえば「机」と言っただけでは私のまえにある四角い物の実体を語ったことにはならない。私の視野を占めるある色を持ち、ある硬さを持ち、ある温度・湿度を有するものの、つまりある言いがたいものの記述形式のひとつの選択肢が「机」という記号(文字・発話を含めた)であり、別面から言えば「緑」であったり「神」であってもかまわなかった恣意性を含む「しかじかのもの」である。
 なるほど、言いがたいものが何であるか、さまざまに語ることはできる。「これは机である」「それは四本の支柱と一枚の長方形のスチール板から成るあるものである」「コーヒーカップを置いても窪まないが、ハンマーで叩くと跡がつくあるものである」「午後の数時間、私が毎日これのうえで書き物をするあるものである」以下、限りなく記述はつづくけれど、ではその「机」とはほんとうのところ、「何」であるのか、つまり世界にとって何であるのか、われわれは世界の内側にいて諸事実の連関からそれを定義することはできても、その存在をいわば決定することはできない。われわれは像(aRb)を言うことはできるが、像のもとになったもの(aRbという表現のもとになるもの)を言うことはできないのである。このことは「論考」では次のようになる。

命題には射影に属するすべてのことが属するが、射影されるものは属さない。つまり、命題に属するのは、射影されるものの可能性であり、射影されるものそれ自身ではない。(3・13)

 「論考」はこのように言語についての「論考」でもある。つまり、命題は言語へと分節化され(3・141)、いわば(私の)言語の限界が(私の)世界の限界を意味(5・6)しているのである。



 像についての考え方が「論考」における言語観の基本を成していると言える。「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」、そこから導かれるのは、世界にいること、つまり対象を官能し指示し認識している、というのが「私」であるという事実、言い換えればそれは必ずしも「ウィトゲンシュタイン」や「倉田良成」である必要はないが、限りなく比喩的に言って「心」をファンクションとしない世界は誰にとっても存在しないということである。極論すれば、存在にはつねに、言うなれば「透き間」がつきまとうのだ。この透き間が、言語にとっては本質的なのである。それは像を生む。透き間のないところに像は生まれえず、言語の発生を支える心というものも存在しえない。

命題は現実の像である。/命題は現実に対する模型であり、そのようにしてわれわれは現実を想像する。(4・01)
一見したところ命題は――たとえば紙の上に印刷されている場合など――、それが表している現実に対して像の関係にあるようには見えない。しかし楽譜もまた見たところ音楽の像には見えず、われわれの表音文字(アルファベット)も発話の音声に対する像になっているようには思われないのである。/それでもこれらの記号言語は、それが表すものに対して、ふつうの意味でも像になっていることが知られよう。(4・011)

 ソシュールではないけれど、それが表す現実に対し、言語に代表される像というものの恣意性を読み取ることができる。aはbでもありえた。ある光の反射に対し、青は赤という名でもありえた。むろんそのことと、言語が恣意的でない連関・組織・体系を持つこととは矛盾しない。これについて問うならば、この恣意的でないところの言語の構造は、現実の似姿といえるのであろうか。そうではないのだ。むしろこの現実の方こそが、われわれの持つ言語の構造の似姿なのだ。「論考」もだいぶ奥まったあたりでウィトゲンシュタインは書いている。

ひとはしばしば、あたかもわれわれが「論理的真理」を「要請した」かのように感じてきたが、いまやその理由が明らかになる。われわれがそれを要請しうるというのは、つまるところ、われわれが適当な表記法を要請しうるということにほかならないのである。(6・1223)

 すこし筆が先走りしすぎたようだ。基本的なことは、言語は命題が分節化されたものとして、当然のことながら現実そのものではなく現実の表現としてある。これを言い換えると言語と現実のあいだ(に透き間があるという関係)は、写像関係にある。このことを「論考」は、きわめてうつくしい比喩でもって語る。

レコード盤、楽曲の思考、音符、音波、これらはすべて互いに、言語と世界の間に成立する内的な写像関係にある。(…)(童話に出てくる二人の若者、その二頭の馬、そして[若者たちの安否を表すとされる]彼らの百合のように。それらはある意味ですべてひとつなのである。)(4・014)

 たしかにそれらは「ある意味でひとつ」なのだ。ラという音符は現実のラという音とはまったく異なるものだろう。その異質さは、音楽で言えばレコード盤の溝の形からデジタル的な情報信号に至るまで変わらない。それらが「ひとつ」である場所は、たとえ視覚的・聴覚的・触覚的に到達可能なものであっても、いかなる現実的な場所でもない。
 空間的なことについて考えてみる。家の設計図のようなものは、ラという音符記号と実際のラ音との関係よりはずっと(像と現実とが)接近しているかに見える。それを基に起こされた縮尺何十分の一かの模型などはほとんど「現実」と変わりないかに見える。けれどそれがたとえば実際に居住可能なモデルハウスであったとしても、なおイデーでありつづけるのである。
 モデルハウスに実際に居住するためには、つまり「家」となるためには、モデルハウス自身には属さない他のさまざまな連関が要請されるのであり、それらの連関が要請されて出来あがった「家」にとり、モデルハウスは現在の「家」に連続した過去の姿などでなく、たとえばふたたび一枚の設計図の形に戻って小さく保管されるような、現実の写像でありつづける。こういった幻のなかで、明らかにそれの似姿と捉えうるもの、それは必ずしも、鳥を舟で、数字2を鈎で表すような空間的なメタファーとは考えないが(しかし一方、あらゆる思考はある意味で空間化されているといっていい)、すくなくとも次のようには言うことができる。

明らかにわれわれは「aRb」という形式の命題を像として受けとめている。ここにおいて記号は明らかにそれが表すものの似姿である。(4・012)



 「論考」において論理空間はおおよそ以下のように示される。

論理においては何ひとつ偶然ではない。(2・012)
(…)ものが事態のうちに現れうるのなら、その可能性はもののうちに最初から存していなければならないのである。/(論理的なことは、たんなる可能性ではありえない。論理はすべての可能性を扱い、あらゆる可能性は論理においては事実となる。)(2・0121)

 これほど融通無碍な空間はこれ以上考えられないし、また逆に、これほど厳密な「逃れがたさ」を持つ空間も考えられない。ありうることはあることにほかならず、それを妨げたりより以上に促進させたりする要素はどこにもない。「論理においてはすべてがひとつひとつ自立している」のであり、論理そのものには「より一般的とか、より特殊」ということはありえない。「論考」の論理空間内では次のように言われる。

しかし記号「p」と「〜p」(pであることの否定)が同じことを語りうるということは重要である。というのも、そのことは記号「〜」が現実における何ものにも対応していないことを示しているからである。/ある命題に否定が現れることは、その命題の意味に対する何のメルクマールにもならない(〜〜p=p)。/命題「p」と「〜p」は逆方向の意味をもつが、しかし、それらには同一の現実が対応する。(4・062)
論理記号が正しく導入されたならば、それとともにそのあらゆる組合せの意味もまた、すでに導入されている。それゆえ、「p∨q」(pかつq)のみならず、「〜(p∨q)」(pかつqではない)等々も同時に導入されているのである。そのときひとはまた、およそ可能なかぎりの括弧の組合せの働きも、すべて導入していることになるだろう。そしてこのことから、本来的な一般的な原始記号とはけっして「p∨q」や「(∃x).fx」(「すべてはfである」あるいは「すべてのxに対して、xはfである」)等ではなく、それらの組合せに対するもっとも一般的な形式であることが明らかとなるだろう。(5・46)

 知識がないので多くを言うことはできないが、ここでは、驚くべきことが語られているのではないか。まさに、あらゆる可能性は論理においては事実と等しいのである。そしてこれらの命題の礎は式を成り立たせる記号一般ではなく、それをつきつめたところで得られる一般的な原始記号とされるものでさえもなく、記号や式の組合せを「それ」たらしめている「もっとも一般的な形式」としか言いえないものだ(視認されるべき対象的性格・空間的属性は言うなれば揮発している)。この論理空間の融通無碍さは「論考」の劈頭あたりで、すでに触れられている。「他のすべてのことの成立・不成立を変えることなく、あることが成立していることも、成立していないことも、ありうる」、また、同じことだが、「ある事態の成立・不成立から、他の事態の成立・不成立を推論することはできない」と、いうふうに。
 いま私の眼のまえのパソコンのモニターに黄色いランプが点灯していることと、炊飯器に蒸気があがっていることとは相互に自立している。仮に電源が一つしかなく、パソコンがオンのときには炊飯器が使えない場合でも、両者は因果関係のなかにあるのではなく、パソコンのオンとオフ、炊飯器のオンとオフ、電源の使用・不使用の三つの相互に自立した事態が存在するだけ、というのがおそらく「論考」の考え方である。これらのことは次の確率論につながってゆく。

ある状況が生起していることから、それとまったく別の状況の生起を推論することは、いかなる仕方でも不可能である。(5・135)
現在のできごとから未来のできごとへ推論することは不可能なのである。/因果連鎖を信じること、これこそ迷信にほかならない。(5・1361)
真偽の項を互いに一つも共有しない命題は、相互に独立であると言われる。二つの要素命題は、それぞれ他方の要素命題のもとでの確率が1/2となる。/qからpが帰結するとき、命題「q」のもとでの命題「p」の確率は1である。論理的推論の確実性は、確率の一方の極である。(5・152)
一つの命題は、それ自体では、確からしいとか確からしくないといったことはない。できごとは起こるか起こらないかであり、中間は存在しない。(5・153)

 これらを眼にするとき、対して「論考」の次なる言明につながる感を覚えた。それは「たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然として手つかずのまま残されるだろう。これがわれわれの直感である。もちろんそのときもはや問われるべき何も残されていない。そしてまさにそれが答えなのである」(6・52)というものだ。ここでもわれわれは身体を裏返らされる。こういった世界観に、時と場所をはるかに違えつつ、以下の詩篇に似た朗々たる「示衆」をふと思い浮かべるのは、私の何か重大な錯覚だろうか。

たき木はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。(正法眼蔵第一「現成公案」より)

 あることは起こるか起こらないかのいずれかである。たとえば天気予報で翌日の雨の確率が20%であるとして、「論考」の言い方では「現在のできごとから未来のできごとへと推論することは不可能」である以上、確率20%などという「現実」は存在しない。今日の時点では降るか降らないかの二つの未決定の項が与えられており、その時点になれば現実に降っているかいないかのたった一つの決定項が存在するだけだ。
 この、時間という言うなれば存在の矛盾によって存在を説明する曖昧さを排除した在り方を、生死を無碍にする「現成」(げんじょう)という仏法の一形態に重ね合わせてみる誘惑に、私はうまく克てそうにない。存在は無碍である。「論考」のイメージでは、それは「像を取り巻く論理的足場は論理空間にあまねく行きわたっている。そうして命題は論理空間全体へと手を伸ばす。」とか、「一軒の家を取り巻いて巨大な足場が組まれ、その足場が全宇宙に及んでいるのを想像してみてもよい」とかいう壮大な表現をとっている。かかる無碍の在り方をあらわすのに、さいごに、永劫につづく夕映えを思わせる謎のような、生死(しょうじ)へのまなざしに満ちた、次のごとき言説からなる一断片を引いて、このノートを鎖すことにしたい。

死は人生のできごとではない。ひとは死を経験しない。/永遠を時間的な永続としてでなく、無時間性と解するならば、現在を生きる者は永遠に生きるのである。/視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、終わりをもたない。(6・4311)
                          04/9/10~14



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