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大木重雄誄


 そのじっさいの謦咳についに接することがなかった。私がいつかそっちのほうへ行く仕儀となっても、芭蕉の書簡によくあるように「猶追而貴面」(手紙の書面ではなく、実際にお会いしてお話しします)というわけにもまいらぬだろう。けれど、私が現実にお会いした誰よりも、大木さんとは密実な手紙や葉書のやりとりがあった。大木さんと袖振り合うほどのご縁の方の誰しもが、びっしりと白紙や桝目を埋めたあの懐かしい細かいペン文字を思い浮かべるのではなかろうか。紛失したものも多く、そのことが今ではこころの生傷のように痛むのだが、遺された手紙葉書がいま私の横のここに積まれてあるのを見ても、つくづくと思う。ここに大木さんは居て、現在でも私に、ここから放出される未来のことまで語り尽くして倦んじない、と。それはビデオやコピーのたぐいではない。一枚一枚が取り替えの利かない、大木重雄という深い一回性の現前にほかならないのだ。
 大木さんは生前、あまり作品集というものを出すことにこだわらなかった。業績としてジョン・P・オニール著『メトロポリタン美術館の猫たち』(誠文堂新光社、昭和五十八年)という翻訳書が一冊あるというのが、ダニエル社から二冊の詩集を出す以前の公式の記録といえる。大木さんのものされた評伝『回想の牧章造』(坂井信夫氏個人誌「索」に十五回連載)によれば、大木さんは戦後すぐから詩や小説を書き、発表してきたが、その総数は私としては知るべくもない。それらが輿論においていかなる評価を受けたかも、個々についての詳細を、大木さんはその細かい文字による消息の一片だに残すことなく持って行ってしまわれた。繰り返すようだが、私の手元に残されたのは、詩集『山谷堀寸描』(平成十九年二月、ダニエル社)、第二詩集『愛にひきあげられて』(平成二十年六月、ダニエル社)、それから私宛の大量の手紙、葉書類のみである。此によってこれにより、大木さんの人となりと生涯を、その一端なりとも想い起してみたい。
 大木重雄さんは、昭和三年、東京・浅草に生まれた。ご尊父は歌舞伎界の道具方の重鎮であったことが、葬儀の日の弔辞により明らかにされたが、たぶんよちよち歩きの時分から歌舞伎座の観客席はもちろん、楽屋や奈落まで出入りされていたのではないだろうか。学齢時代は山谷堀尋常小学校から京華商業、それから年譜的には明治学院に進まれて戦後を迎えた。この間に、昭和二十年三月十日の下町を襲った東京大空襲に遭遇し、九死に一生を得ている。このことは、私思うに大木重雄氏の一生涯をほとんど被うほどの影となってその身に寄り添っていたのではないだろうか。卒業後、生計のために汐留の日通でアルバイトなどするうちに、詩人の牧章造と出会い、親交を深めるきっかけとなる。のち、やや転身して立正中学・高校に奉職し、立正大学で英文学など講じるに至る(筆者宛書簡より)。戦後、結婚した百合子夫人と一男をなし、平成十八年、夫人を亡くされる。「それは私の死も同然だ」(『愛にひきあげられて』あとがきより)。
 私とは、たぶん平成十五年ころから個人的に親しくさせていただいた。きっかけは拙詩集をお送りし、それへの評が好意的以上のものに感じられ、個々発表した拙作についても丁寧だったり辛辣だったり、ときに過褒とも思われる言葉をいただいて、ついに十冊ほどある、あまり評判も取らずにわが家の押入で眠っていた詩集をふくめ、愚作のすべてをお送りする仕儀にまで立ち至った。大木さんの言葉はつねにわが詩作の励みであり、その見識と直感の鋭さにおいて、豚を木に登らすにじゅうぶんな力を持っていた。
 詩のことに関してはさておき、私がお送りした文庫本サイズの飲み食いの話『解酲子飲食』(かいていしおんじき)は大木さんをことのほか喜ばせたようだ。あのなかで「銀座の魚屋」と書いたのを大木さんは見咎めて、はて銀座のしかも木挽町あたりに魚屋などあったか知らんとおっしゃるので、「歌舞伎座裏の魚石」ですと答えたら、《お礼申し上げなければならないのは私のほうです。木挽町界隈はわりあい知っているつもりでしたが、知らないことが多多あると分かり自戒しております》と書いて寄越されたが(平成十五年十二月四日付葉書)、今から考えると誰を相手にものを言っていたのか、私もめくら蛇に怖じずで、随分恐ろしいやりとりをしたものである。冷汗一斗とはこのことだ。
 私の前便で江戸料理の泥鰌や田螺のことを話題にしたところ、上記の返信でこんなことを書いておられたのが、いかにも大木さんらしい。《先日脚の故障をおして久久に歌舞伎座へ言ってまいりました。「お染の七役」の小悪党鬼門の喜兵衛と土手のお六の侘び住まいの場面で、喜兵衛がみずから求めてきたアテで、お六に酌をさせるところがあります。そのアテを喜兵衛がはっきり「たにしの煮つけ」と言っております。(中略)「たにしの煮つけ」というのは当時の庶民のもっとも安直なアテだったのでしょう。これは南北の闇の世界…。》(同前)。
 いったいに大木さんの飲食というのは、あるいは、飲食から見た世界観と言ってもいいが、ご自身がまさにそうであるように、骨の髄からの江戸人のそれにほかならない。清酒好き、魚好き、肉は得意でなく、歌舞伎の見巧者、見知らぬ町へ行ってその町の銭湯に入るのが好き、推理小説やクラシック音楽をいたく好み、フランス語に堪能、英語はご専門、だが、そういうことをひけらかすのは野暮天がすることとばかり、その種の話柄に出会うと「顔をしかめて笑った」そうだ(佐野菊雄氏の弔辞による)。その東京の下町に寄せる思いは並々のものでない。いつか小さな詩の集まりの仲間で、忘年会をやったことがある。場所は深川は高橋(たかばし)の「山利喜」。そのときのことをおもしろ可笑しく書いた私の駄文がまた大木さんのお眼鏡に適ったようで、その尺牘をここに紹介しても差し支えあるまい。
 《「林」の忘年会「山利喜」とはやはりという感じ。発案者は当然倉田さんでしょうね。倉田さんの食物記を拝見すると、尻が落着かなくなります。と言って蟄居の身、お便りを食するしかありません。「目に毒」と言いますが、目のほうは年賀執筆中に襲われました。いつもなら数日でおさまるのですが、今回はなかなか旧に復しません。世はショーチュウ党一色で、すし屋でも「イイチコ」などが取置きで満杯のとき、皆様日本酒党のようで、わが意を得たりです。でも「山利喜」にナチュラルチーズやアンディーヴが登場するなんて、私の時代遅れもはなはだしいと言わねばなりません。何回も拝読しているうちに、発狂(?)にも似た妬ましさを覚え、すごすごとお便りを封におさめました。有難うの上に「お」をつけて鶴見までふわふわ飛んでいきたい、と言うことではありません。むしろ大変元気づけられました。奥様もかなりの酒豪のご様子、もし良いアテでもあればどうなるのでしょう。(息子も楽しそうだなと嘆じておりました)》(平成十七年十二月三十一日付葉書全文)
 「山利喜」をちゃんとご存じであった、というのは話の順序が逆で、むしろ私のほうが下町の人間なら誰でもが知っていたはずのこの店に、よくも巡り合ったものだという僥倖めいたことを思うべきなのかも知れない。これも、めくら蛇に怖じず、のたぐいであろう。そういえば上述の食物記で、「日本堤のけとばし屋に行った」と書いたら、おいおい君、という感じで、困りますね、私の縄張りにまで入ってきちゃあ、といったニュアンスのお便りをいただいて、このときもいたく恐縮した。「日本堤のけとばし屋」とは、桜鍋の「中江」である。こういった下町の店々を友人たちと飲み回って深更にいたり、気がつけば今までそばにいたはずの彼らみんなが幻のように消えていた、という氏の幻想小説の一端を拝読させてもらったことがあるが、これは死者となった若き日の友人たちへの愛惜であると同時に、「戦(いくさ)が緋のマントにくるんで持ち去った」「前世」の記憶(『山谷堀寸描』より)、その中にしか存在しない大木さんの東京下町というものへの秘められたる鍾愛といえるのだ。
 大木さんの下町好きはまたその歌舞伎好きにも通じる。詳しくはないのであまり大きなことは言えないのだが、さっき紹介した葉書の文面にも鶴屋南北が登場している。河竹黙阿弥もお好きのようであったが、これは私の好みと重なる。役者では断然菊五郎。ただし六世で、これをオン・タイム、生で見るのを得たことが大木さんの大きな財産のようであった。葉書の中で大木さんはこんなことを書いている。《「間」は「魔」で歌舞伎でも同じです。私が今も六代目菊五郎を尊敬してやまないのは「魚宗」のセリフの「間」に鳥肌が立ったのを忘れないからです。》(平成十七年八月二十日付葉書)。また、中村歌右衛門と坂東玉三郎のやりとりをこんな風に言う。《(妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)について)歌舞伎ではとても通しはのぞめませんね。精々「山の段」―「道行」―「館の段」ぐらいですが「山の段」が見ごたえがあります。それで思い出したのですが、六代歌右衛門が定高(さだか)を演じるとき、他の人とは違うところがあると聞いた玉三郎が、自分が演ずるとどこが違うか知らせてほしいと頼んだそうです。結局はちょっと小腰をかがめて顔をそむけるうれいの姿(後段の伏線)だったそうですが、玉三郎がどうやったかは覚えていません。いま歌舞伎座建て替えの話があるそうですが、あの辺をよくご存じの倉田さんはどうお感じでしょう。戦後やっと歌舞伎座の上演が許され、焼失した歌舞伎座でなく筋向かいの東劇で上演、私も行きましたが、出し物は「助六」、いくら名優の六代菊五郎でも揚巻はどうにも「アクタイのハツネ」も通りませんでした。》(平成十八年六月十七日付葉書)。「あの辺をよくご存じ」とは、私がかつてあのあたりにあった出版社で、フリーランスとして七年ばかり仕事をしていたことがあるのを指す。「木挽町の魚石」はそのときの話である。また、六世菊五郎の「アクタイのハツネ」とは何かが、今の私には判じようもないのが、隔靴掻痒のごときものであるのだけれども。
 大木さんの文学に関することと言えば、創作を別とすれば、大いにご自身に影響があったというか、その文学的体力に資するところがあったのは、やはり英語であり、それから独学でやって来られたというフランス語の文学であろう。あまり詳しくはおっしゃらなかったが、英語圏ではジョン・ダンを読んでいた一時期があるという。またフランス語ではボードレールの『悪の華』全巻を通読されたのが大きいと思う。大木さんは野暮な大声を出されない人なので、このほかにも泰西の大小詩人たちに関する知的な蓄積量に、目を瞠るものがあることはその片言隻語からじゅうぶんスパークしていた。そのスパークが分からない向きにはまた「顔をしかめて」笑ったことだろう。
 音楽ではモーツァルトのどれそれ、シューベルトのどれそれといった、作曲家や作品そのものを評するというかランクづけするということはあまりなく、誰のどんな演奏がよかったかとか、演奏者の逸話や表情といったことに重きを置かれていたようだ。つまり作品がどうであるかというよりは、その現前たる演奏や演奏家がどうであるか、といったことに興味の中心がおありだったのではなかったか、と書けば、我田引水になろうか。この曲はこの演奏家に限る、という言い方もあまりされなかったように思う。
 詩以外では、小説は無類にお好きであったと感じる。海外文学だが、ドストエフスキーは全部お読みになったのではないだろうか。「近代文学」の作家としてだろうけれど、埴谷雄高の『闇の中の黒い馬』など、私に恵与くださった。埴谷は私は若いころ、一種の思想家として考えていたものだが。それから島尾敏雄の『贋学生』に話が及び(手紙でである)、あれを若いころ読んだことがあると書いて送ったら、あれまではなかなか島尾を読んだと言っても読んではいないのだ、とお褒めに与った。あの作品を石川淳が評して「駄作というより、世紀の悪作である」と言ったと教えてくださった。ついでに、島尾敏雄を大作家という人がいるが、じぶんは島尾が「大」のつく作家という気がしない、とも話されていた。
 その詩的履歴については、なんといっても『回想の牧章造』が第一資料として挙げられよう。これをなんとかして、パンフレテールな形ででもよいからまとめておき、流通させたいものと思う。金子光晴始め、じっさいに大木さんがその謦咳に接した詩人たちが走馬燈のように出現しては消えてゆく、そのまぢかの息遣いさえ聞こえてくる貴重でレアな記録である。また現在では失われてしまっている、幾時代かの雰囲気のようなものがそくそくと伝わってくる。ちなみに原爆詩で著名な大木淳夫は、大木さんの縁者のようである。大木さんは決して原爆詩や空襲詩や思想詩などは書かれなかったが。
 最晩年、という言い方も私には口惜しいが、その晩節に夫人を亡くされたことが大きな痛手であろうことはみずからも仰られ、また容易に他からも推し量ることができようが、それを境としてそれまでにも傾向としては萌芽をのぞかせていた、一種の神秘思想に傾いてゆかれた形跡が窺われる。先にも言ったが、ジョン・ダンを読んでいた一時期があったということを告白されてもいる。夫人を亡くす一年前であるが、こんな葉書を寄越されている。《また今生を相対視しはするが、迷信には行きつかない(拙詩集『夕空』のあとがきによる)、の迷信とは「ある種の神秘主義」でしょうか。シュタイナーをかじった私には耳が痛いのですがおっしゃる通りでしょう。》(平成十七年八月二十日付葉書より)。そして、最後となった第二詩集『愛にひきあげられて』に顕著なキリスト教のしかも旧教の面影が濃厚な詩群、それは亡夫人との深い対話を為すものであるが、それに通じる葉書の一節をここに引いてみる。《私はもっと単純に考えます。人間(というより私自身)は一個の生物体に過ぎませんので他の生物と同じ道筋に従う。この自覚はかなり若い時期に訪れました。家族は子供の誕生を祝うが、子供自身は誕生しなかったことを祝われるべきではないかと。しかし、現在はすこし変わってフィルムを逆回転させ、幻の母の胎内におさまればよい終結だと。凡庸な「胎内願望」に過ぎませんがほんのすこしの「神秘」が加味されています。》(平成十九年三月十日付葉書より)。
 この女性性にかかわる「神秘」が、大木さんの晩節に訪れたと見てよいのではなかろうか。いっぽうで、大木さんにはこんな側面があるのだ。《……ここだけの話ですが(ビトウイン・ユー・アンド・ミー)、私が「女色に潔癖」などよくお判りになりましたね。正確に言えば「女性への恐怖心」とも言えるでしょうか。女性は現世に足がついていますが、私は二、三センチ宙に浮いて生きてきたようです。昔、ある文学の会合である女の子が、私を見つめて、私の詩を全行すらすらと暗唱したことがありました。その結果はご想像にまかせます。》(平成十七年五月二十六日付葉書より)。
 ここで言う「恐怖心」がどこからやってくるのか、にわかには判じがたいけれど、思うに、むしろ女性たちを強く引き寄せてしまう要素が、大木さんにはありていに言って可成りにおありだったのではなかったか。みずから仰るごとく、大木さんにはあまり、ではない、全くと言ってよいほど女色への嗜好、いいかえれば俗臭が感じられないのは事実だ。それが神秘的な氏の女性性とどうかかわっていたのか、精しくは大木さんご当人にあちらに行ってからゆっくり伺うにしても、その俗臭の無さの理由のひとつに、ご自身が過剰なまでに固く身を律することをされていたことが挙げられる。その潔癖さの根源をはるかに思えば、却って「色を好むが如くする」(『論語』)という言葉が思い浮かんでくるのはどういうわけか。むしろ女性性をめぐることがらは大木さんにこそ相応しい。若い吉本隆明がかつて太宰治と面談したさい、君その無精髭を剃りたまえと言われた、所謂「マザー・シップ」のことなど思い合わされる。ご母堂や夫人に支えられて生きてこられた大木さんが、「女に愛されない男」であるわけがない。むしろ大木さんという少年的な存在が、女性の篤い庇護を受けているという、聖画の構図のようなものさえ見えてくるようだ。
 ご夫人が逝かれたのが平成十八年、大木さんが逝かれたのが平成二十年。なんと短くて長い、遅い、遁走曲のひまであったろうか。大木さんの訃報を聞いた夜、大木さんは女性性という神秘へ帰ってゆかれたのだと、つまらない句でもって一瞬のミサとした。


 水無月のやへがきとはに妻籠みに  解酲子



「索通信」(2007年9月)より。



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