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あひ見ての ――私の小倉百首から



  はじめて女のもとにまかりて、又のあしたにつかはしける
あひ見ての後の心にくらぶればむかしは物をおもはざりけり   藤原敦忠



 はじめてあのひとに会ったのは、友だちのうちで開かれた
パーティの席だった。アルコールとたべものを持ち寄り、歌
や、ギターや、果ては詩の朗読まで飛び出した夜のにぎわい
の中心にはあのひとはいた。いちばん若くてなまいきで、そ
して綺麗な男だった。わたしはこれと目をつけたものは外し
たことがない。服でも声望でも恋人でも。けれどあのひとは、
これまでどんな男でも難なく落としたわたしの手管をつくし
ても、すぐさま恋人の関係になることを拒んだ。手紙を交わ
し、誓約のような儀式を踏んでからわたしのものになった。
あのひとはわたしが思っていたとおり、おくてでうぶだった。
けれどそうなってしまってからはたちまちにして、苦痛にも
似た深い悦びをわたしに与えるようになった。わたしはうろ
たえた。これではほしいままに生きるはずだったわたしの望
みとはうらはらに、奴隷の人生を送らなければならない。あ
まつさえ、あのひとがわたしから失われたり、わたしのこと
はさても、あのひとがこの地上から失われたりすることを思
うだけで、わたしは恐怖に取り憑かれた。わたしは自由にな
らなければならない。それからわざと友だちのところに外泊
した。友だちは女友だちではなかった。朝、帰ってみるとあ
のひとは何もとがめずに紅茶を淹れてくれた。ポットを持つ
左手のくすりゆびに絆創膏をしている。ギターの調弦のとき
に傷めたのだという。別の夜、仕事先の付き合いがあって宴
会に出たら、むかし関係のあった男と再会した。わたしはじ
ぶんが自由であることを確かめたかった。ホテルのシャワー
の匂いをさせて遅く帰ると、あのひとは左臂を包帯で吊って
いる。こころの底から驚き心配してどうしたのかと聞いたら、
しらべものをしようとして本棚に手をのばしたら、ウィリア
ム・ブレイクの一巻全集が落下してきて肩に当たったのだと
言った。何にも知らないあのひとを、わたしはわたしの行い
によって苦しめているのだろうか、という奇妙な疑問がふと
頭を過ぎった。あのひとの知らないところで行われているわ
たしの不正が天災のかたちをとって、わたしにではなくあの
ひとに降りかかっているとでも? それから「不正」が行わ
れるたびごとに、やけどをしたり、肉を抉ったり、骨が砕け
たりして、あのひとの躯は少しずつ闕けてゆく。けれどあの
ひとがわたしの身体に与える悦びはいよいよ深く、また夕日
のような暗い輝きをいや増しに増してゆくのを止めることが
できない。あのひとが闕けてゆくにしたがって、こんなに恐
ろしいまでにわたしはあのひとのことを愛していたのだとい
う思いが大きくなる。あのひとが消尽したときにわたしの愛
は完全になる。悦びも極点に達して、わたしもたぶん、死ぬ。
誓約(うけひ)により、わたしははじめてあのひとを落とすのだ。


「tab」17号より。



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