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方便の構造



 親鸞はその晩年の全力を挙げてものした大著『教行信証』序で次のように言っている。

 あゝ弘誓の強縁、多生にもまうあひがたく、真実の浄信、億劫にもえがたし。たまたま行信をえば、とをく宿縁をよろこべ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへりてまた曠劫を径歴せん。

 一見して法楽の昂ぶりが感じられるような息遣いの文であるけれど、南無阿弥陀仏のたった六文字の称名がまさに「曠劫を径歴」した末に得られたものであることが、そくそくと伝わってくる。
 親鸞といえば『歎異抄』で、われわれ戦後生まれの人間などは随分とその「文学的」側面といおうか、文学的理解といおうか、そういう切り口で親鸞を見ることに慣らされてきた。しかし仏教でも儒学でも絵画、詩文でも、人間をひとりひとりの孤絶した個性というふうに捉える習慣を、アジアではあまり有してはいないので、親鸞もそのひとりとして一度仏法二千年のコンテクストの裡に置いてみなければ正確な像が結ばれることはないと思う。『教行信証』が単なる「秀才の作」ではあり得ない所以である。
 たった六文字の称名のために、親鸞は法統のことごとくを動員する。大無量寿経、大阿弥陀経、十住毘婆沙論、中論、浄土論、十二部経、涅槃経、華厳経。また自らの祖として、龍樹、天親、善導、源信、法然ほかを挙げている。浄土真宗の権威付けといえば権威付け、また我田引水といわれればそういう側面もあろう。ただし仏教自体、事事無碍をその本来的な性質として有しているので、親鸞がこう言ったからといって先鋭な批判や反批判が飛び交うというようには、事はどうしても出来ていないようだ。みな仏典をみなもととしているので当たり前ではあろうが、どの宗派の教典を開いても、必ず一度はお目にかかっている概念や用語、それどころか、中心となる考え方の共通性さえしばしば認められる。
 そのなかで無と方便というのは形影のごとく表裏合している、そこから仏法的なものすべてが展開してゆくギアみたいな概念と言えるのではないか。『教行信証』の任意の箇所でいいが、たとえばこんなくだりがある。

 またいはく、仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはちくるしく、水道の乗船はすなはちたのしきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるひは勤行精進のものあり。あるひは信方便の易行をもて、阿惟越致にいたるものあり。

 苦しい歩行や難行道に比べ、そのたやすい水道の乗船や易行はいったい何によって可能というか、根拠づけられるかというと、億劫のむかし、すでに阿弥陀仏の弘誓[ぐぜい]が凡夫のすべてを憐れんで為されているからであり、驚嘆すべき智慧の思考は凡夫に成り代わって全宇宙ですでに展開され尽くしているからだという。凡夫は考えたり苦行する代わりに南無阿弥陀仏の六文字にすがればいい。
 これを言い換えるに「真理に誘い入れるために仮に設けた教え」(広辞苑)という方便の、ある発達しきった形のひとつと言いうるのではないか。「それは真実ではない」と言いつのって何かある、と私なら考える。「終わりよければすべてよし」というのは、はなはだキリスト教的ならざるウィリアム・シェイクスピアの驚くべき言葉だが、結果オーライという昨今の粗雑な志向とはかなり違うと指摘しておきたい。ひとことで言うと、方便とは最もプロセスを慎重に大切に扱う繊細な概念なのだ。結果オーライは時に人を害することがあるけれど、方便は人を、心も体もその生害から慎重に逸れさせる悲の手業と言える。その意味で方便は嘘ではない。嘘も方便なのだ。方便はなぜ虚偽ではないのか。そのヒントが次の経文に隠されているような気がする。

 如来応(供)正等覚の、性空と実際と、涅槃と不生と、無相と無願等とのもろもろの句義をもって如来蔵を説けるは、愚夫をして無我の怖れを離れしめ、無分別無影像のところ(これ)如来蔵の門なりと説かんがためなり。(中略)たとえば陶師の泥聚の中において、人功、水、杖、輪、縄(等)の方便をもって、種々の器を作るがごとし。如来もまたしかり。一切の分別の相を遠離する無我の法の中において、種々の智慧(に基づく)方便善巧をもって、あるいは如来蔵と説き、あるいは説いて無我となし、種々の名字をおのおの差別す。(『楞伽経』より)

 ここに本来一切空という仏法の基本的な考え方が示されている。いまあるすべてのものはそれ自体として存在しているのではなく、すべてはすべてと縁(関係性)を持ちつつ、またそれが可能であるのは縁の障りや無縁の障りとなるものが何もない(無)ということを基本にしているからであって、物と物のぶつかり合いや事と事の矛盾は、無という究極的なパースペクティヴにおいては撥無の相のもとで捉えられるのである。そしてこの究極の無はうつし身の「世間」道にある凡夫が受け入れることなかなかに難い。
 『楞伽経』は禅宗の基本経典でもあるけれど、同じ匂いを持つ思想は当然『教行信証』のなかにも存在するわけで、『楞伽経』における無分別無影像[むふんべつむようぞう]という恐るべき智慧を、実体的にではなくそれこそ事事無碍の風通しのなかで、陶工の造り出す泥の形象みたいに、あるいは如来と説き、あるいは無我と説き、あるいは南無阿弥陀仏、乃至一念と説く。教えを説くために蜜の味で誘い、甘美な女色で誘惑し、悪徳と見まがう狡知で獅子吼して人を正覚にみちびく。南無といい、阿弥陀と唱え、あるいは言葉もない臨終の気息の一念だけで、やさしい暴力みたいにかの岸に摂取不捨される。すべてはそれ自体ではなく、縁という名の喩であり、喩を成り立たせている鋭い無である。深く究められた仏法二千年がたった一事、一言で、それまでの歴史の組織系すべてを染めて顕形[げぎょう]するのだ。ある軽やかさのうちなるこの戯楽の構造を方便と言うけれど、その当の概念自体、何かのための方便のような気が、私にはしきりとしてならないのだが。



「メタ  11号 」(2005年6月)


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