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鶴見の田祭り



 私は初めて見に行ったのだが、平成十七年の「鶴見田祭り神事」は晴天に恵まれた。若いころ調べていた、主に鶴見川流域に多数存在する杉山神社のひとつとして鶴見神社がいますのだけれど、そのとき(昭和五十四年)に手に入れた戸倉英太郎著『杉山神社考』によって、この社で(当時)かつて行われていた神祷歌[かむほぎうた]による神事のことを知った。明治初年に途絶し、それから昭和六十二年に復活し、毎年行われていることを迂闊にも知らなかったが、ことしようやく見る機会を得た。
  『神社考』ならびに受付でもらった神祷歌式次第によれば、もともと三島大社のそれに属する田遊び神事は、東海道を経由し中世末期には東京・板橋の赤塚・諏訪、徳丸・北野の両神社にまで伝播したのだが、東京の神事より早く、室町期にはここ鶴見の地に伝わったものらしい。『新編武蔵国風土記稿』には北条のころよりという社伝もあるらしいから、もっと溯るのかも知れない。板橋の両神社のものも私は見ているが、鶴見の神事の印象を大雑把に言えば板橋のそれよりも可成りに典雅・風流なものを感じる。その詞章にあまり極端な違いはないものの。
 本殿における神事掛かりの修祓や歌合わせ、四隅に笹竹を立てた舞台上で、蟇目[ひきめ]役の重藤[しげとう]弓と雁股[かりまた]矢による鬼門・裏鬼門への降魔[ごうま]の矢掛などが執り行われたあと、神祷歌神事が始まる。演者は直垂姿の作大将と同じく直垂の稲人[いなんど]、及び白っぽい法被を羽織っただけの稲人連[いなんどづれ]十名がメインとなる。
 まず田に見立てたヤッサイと呼ばれる、直径二メートルもない藁縄様のもので囲まれたエリアの周りを歌を歌いながら一周する。

 練れ練れ練れや、わが前を練れよ
 疾う練れ、袴のや、
 素襖笠練れよ、世の中が吉ければ、
 穂長の尉[じょう]も、参[まい]たり参たり。

 次いで作大将が、神武天皇から始まり、三河の地名を交え、出雲大社、伊勢天照大神、関東守護三島大明神、等の御神田[ごしゅんでん]に鍬入れするとて、やがてこの杉山大明神の御神田に鍬入れをする、という詞章を唱え上げる。
 次は作大将と稲人とのダイアローグである。作大将が稲人を呼び出すと、稲人は東西南北の四方向のそれぞれに向いて、合わせて「五千五万町の能きところ」に鍬入れをする。このとき「強[こわ]い御料の臭いがぱっと」立つのだが、このことは「飯酒[いいざけ]」(新酒[にいざけ]?)に関連づけられている。作大将はこんどは稲人連にさらに三鍬打てと言う。三鍬打つ所作のあと稲人連一同「古酒[ふるざけ]」の臭いがぱっと立つと唱える。御料とは貴人の田畑、または荘園のごときもののことかと考えられるが、それが目出度い酒の匂いに満ちているというところが、その信仰も含め土地に対するネイティヴの独特の感覚がうかがわれて興味深い。あるいは土(地神)への感覚ということでは、地面を打つ仕草の古代の踏歌や反閇[へんばい]に通じるものがあるのかも知れない。
 つづく春田打ちの歌謡はなんとも典雅・風流なもので聞きながらうっとりとなった。詞章は以下の如くである。

 春田打つとてや 駒うち来たり
 どぢやう ちやくしてや 種俵[たなだわら]つけよ
 稲荷山をばや 暗くとも 疾う練れよ
 燈油[とうゆう]疾う焚[たか]んや 此光でよ
 奥山なるや 檜の木杉の木よ
 と君はきつと世をや 譲り 姫松よ
 来る来る来るや 白糸も繰るよ
 遠来る男のや 悪[にく]からばこそよ
 京から来るや 節黒の稲よ
 速[とう]稲三把でや 米は八石よ

 こういう歌が普通に行われていた遠い日を髣髴させるものだ。旋律は今様に通ずるのではないだろうか。詞章に関してはよく分からないところもあるけれど、奥三河の花祭のそれと共通するような「神歌」を感じさせる。まさに「神祷歌」の真骨頂である。春田打ちに駒、稲荷山の小暗さに灯しの光を呼び、常盤木の連想で姫松に世譲り、繰る白糸と遠く来る男の(それは「神」を待つ意でもある)、まるで梁塵秘抄や閑吟集みたいな恋の駆け引きの歌など、これを単なる支配・被支配の封建的な構造と解しては、絶対に読み落としてしまう、例えば有史以前からとも云える重要なメッセージが存在すると思う。
 次に苗代に代掻きということで「牛」が登場するのだが、これを務めるのが猛々しい若者ではなく、いたいけない小童であるところが面白い。板橋の神事では村の構成員ともいえるりっぱなおとなが演じていたと記憶するが、角付きの紙で出来た面を翳された少年たちの姿にはどこかしら犠牲(サクリファイス)を思わせる、儀式自体のまなざしが感じられるのだ。人身御供とか人柱の言い伝えのさらに根幹に在ると思われる、痛みを伴う一種のイニシエーション(成人戒)の感覚と言おうか、その記憶の残存が隠見するのではないか。これは後にも登場する早乙女(ここではソートメと発音する)役の、これもやはりいたいけない少女たちにそそがれるまなざしにも共通すると、私には何となく感じられた。
 次いで「草敷」と呼ばれる所作と詞章が繰り広げられる。これは田の施肥を意味すると思われるが、三種類の目出度い草が田に敷かれる。すなわち「こがねの菜の花」「しろがねのニワトコ」そして「世の中の蘆草[よしくさ]」の三種。これを稲人連一同敷いたうえで「大足の来ぬほどに、小足踏みに踏もう」と歌う。大足小足とは何か、もともとどんな所作が原形になっているのかはわからないけれど、これも先に述べた地を踏む古い「撃壌」の感じをまとっていることは確かであるように思う。
 それから「種蒔」となるが、蒔かれる種は大明神の御神田から始まり、地頭殿の所、政所殿の所、大人たち、年寄たち、若殿ばら、御房(坊?)たち、女房たち、童部(わらんべ=単なる児童ではなく、たとえば健児[こんでい]のような部曲[かきべ]を指すか?)たち、雑仕たち、定使[ぢょうず]たちと、次々にヒエラルキーと言えば言える階梯を上から下って、千石万石と蒔かれて行く。ここに先程も言った封建制の閉塞を考えるのは比較的容易だけれど、このような世がこのように嘉[よみ]せられているという一方の事実を、単なる「強権」や「奴隷的な心性」という理由で説明するのはとても不自然なことと最低でも言わざるを得ない。終わってしまった時世[ときよ]とはいえ、たしかに民草が幸福であったこのような数百年間、あるいは数千年は存在したのであり、それどころかここに却ってヒエラルキー成立以前、つまり国家や有史以前の面影さえ想像させるよすががあるような気がする。すなわちこの「種蒔」の箇所を読むに、大明神は別格としても、地頭殿から定使へと下ってゆく垂直的ヒエラルキーではなく、地頭殿から始まるとはいえ、定使まであますところなく包摂するというような祝福の水平的配置として、この一連の詞章の意義を認めることができる。区別や差別を形而上学的に抹殺するのではなく、区別や差別をその形のままいわば脱色すること。かつて世界は、われわれが今いる世界のごとき先鋭さから自由であったはずである。
 たとえば列島と大陸の違いはあれ、『詩経』の国風の部における「弋[よく]して(カモと雁とを射て)言[ここ]に之に加[あ]てなば、子[きみ]のために之を宜しく(料理)せん。宜しくしてここに酒を飲み、子と偕[とも]に老いん」(女曰[じょえつ]鶏鳴篇)などありふれて、それでいて幸福な生活をはるかに望見するに、至福千年はけっしてゆめみられた非望などではない。「日出て作[な]し、日入りて息[やす]む。井をうがちて飲み、田を耕して食う。帝力われにおいて何か有らんや」といった鼓腹撃壌の世というものは、確かに存在したと私は思う。
 こののち、田植え、鳥追い、稲刈りと進んで、さいごの性的なカマケワザの大哄笑のうちに神事は終わるのだが、豊年祝いのところで稲人連の歌う歌が、いつの間にか暮れていた春の闇をまた深くするようであった。

 上総の八幡は 面白や
 馬場にらち(埒)結って 駒くらで
 櫛や召せ 針や召せ
 しやかしのほそや召せ
 ホーイホーイホーイ
 鹿島田の 田畦[たいた]に 三つ居たる鵠[くぐい]が
 四つ居たる鵠が 羽を揃えて
 大明神へ 参[まいらん]せう 参せう
 ホーイホーイホーイ
 庭に萩を植えて 秋前栽
 夏は涼むやうに
 西へ指[さ]いた枝に 東に指いた枝に
 中の林檎[りうご]の下り枝に 秋は乱れたり
 ホーイホーイホーイ

 神事の始まるまえ、四月の日が暮れなずむあたり、有志による雅楽・舞楽などもおこなわれたが、神事のソートメよりは少し年かさか、中学生くらいの少女たちによる装束[そうぞく]をつけた薄化粧・直面[ひためん]の奉納舞は木訥ながら優美であった。本来の神事でもなく、また本来の神事自体もかつては小正月に執行された形が正しいはずではあるが、この舞は舞として、いかにも春のものに似合わしいと観じられた。

 暮れ行くや手づつなれども春の舞  解酲子


  *詞章・式次第は鶴見田祭り保存会発行の小冊子『再興第十八周年 民俗芸能鶴見の田祭り』による。



「メタ  10号 」(2005年5月)


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