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岐れ道の先――鎌倉散歩



 そろそろ花も咲こうかという日、三月のみそかのことだが、花を探りに鎌倉を散策した。家内を連れ、連句仲間の二人の女性(にょしょう)と待ち合わせてのことである。女性といっても、(彼女らには内緒の物言いだが)女盛りをいくらか過ごされたか、という塩梅の方々のこととて、物議を醸す筋合いのものではない。お二人のことを俳号等から仮に天女さん、美江さんと呼んでおく。鎌倉の案内は当地在住の天女さんにお願いすることにした。彼女によれば、例年若宮大路の段葛の桜は遅く、二階堂荏柄天神の花の方が早いということであったが、まだ行かぬ荏柄天神のそれはいさ、果たしてさいしょに行った段葛の花は端から端までぜんぶ眺めていっても数輪がほころぶほかは、すべて花芽のままであった。

   鎌倉は花おそげなる昼の影   解酲子

   花には早いがさすがに春の快晴の午後、週末でもないのに駅周辺の人の出はなかなかにすさまじく、目当ての蕎麦屋には入れずに四軒目あたりで入ることの出来た蕎麦「峯本本店」はもう鶴岡八幡宮の門前だった。ここで四人でたぐったせいろはつゆと海苔のかおりがいい。ただしあの麺の一本あたりの長さにはみんな手こずったみたいだ。店を出て八幡の境内に入る。県立近代美術館の倒像が水に揺らめく源平池では、池畔の桜木に二輪の花が開き、となりの白木蓮はまさに満開を迎えるところである。桜の咲くまえの、この白い花の開花を見るたびにいつも私はなんとなく次のようなイメージを抱く。

 一塵の中に微塵の数ほどの(多くの)仏が、各々菩薩の衆会の中に処(お)りたもう。(一つの微塵の尖端に、微塵の数ほどの[無数に多くの]仏たちが、仏の子らの真ん中に坐っておられる。)=『華厳経』より。

 古代のインド人が池に浮かぶ蓮の花に見ていたものを、「木蓮」の名を付けた後生は、青空に浮く花弁の群れに同じく見ていたと思わずにいない。華厳経はこのほかにも、毛の先ほどのなかに無数の、否、インド人は無数という限定の放棄ではなくもっと実体的に考えるので、恒河沙数(十の五十二乗)とか那由他(十の七十二乗)というほどの実数の仏国土を見、また一瞬のなかに永劫を納め、永劫のなかに一瞬を展開させるといった論理で世界を理解する。それの一つの要約された・翻訳された形として、私の眼のまえにこの百五、六十個ほどの白い木蓮の花があると思えばいい。

   白木蓮泛べる空の高さかな   解酲子

   こんなことを八幡宮の境内で思い巡らすのは昔だったら不謹慎ということになろうか。本地垂迹説による両部神道は明治政府によって、また廃仏毀釈運動のもと、かつて徹底的に弾圧された経緯がある。そういえば芭蕉の「幻住庵記」に、庵の近くに八幡宮がありその神体は弥陀の尊像とて、唯一の家(唯一神道=吉田神道)の目から見たらはなはだ忌むことだけれども、「両部光を和げ、利益(りやく)の塵を同じうしたまふも」また貴いことだと言う箇所がある。吉田神道や明治の両部弾圧はさしずめキリスト教やイスラームにおける原理主義というところか。なにごとも純粋化し、徹底化されると、思弁的かつ過激になって世界観が密室化するのはどの領域でもありがちなことのようである。ただし現在は世界観がというより世界そのものがいちいちのどの領域でも密室化していて、これは非常に憂慮すべきことだと思う。
 それはさておき、やがてわれわれは境内を右に折れ、楠の古木が両側で並木をなす流鏑馬の道を通って、雪ノ下、二階堂と抜けて鎌倉宮にたどりついた。言うまでもなく、ここは大塔の宮護良親王が幽閉され暗殺された屋敷跡を、明治政府が官幣中社格の神社として建立し祀ったもので、例年秋ここで宮の霊を慰めるためかと考えるが薪能が催行される。私くらいまでの年代の人間は宮の名を「だいとうのみやもりながしんのう」と教わったが、近年では「おおとうのみやもりよししんのう」の読みで通行しているようである。ただし境内にある由緒説明板の英語の解説では「モリナガ」親王とあったけれど。
 境内はここにも八幡宮の流鏑馬道と同じく楠が多く見られ、聞くところによるとここいら、つまり伊豆から鎌倉にかけてあたりが楠の北限にして特にその簇生の集中が観察される地域であるそうだ。このあと行った荏柄天神もそうだが、山懐にいだかれ、背後の三方を切り立った崖、でなければ急峻な斜面に囲まれた社寺の空間は鎌倉独特で、緑のもえたつ裏山の狭い空に鳶が遊弋する春の濃密な青さは、たとえば山一つ越えた大船や、まして同じ県内ではあるが横浜の丘陵の持つ空気とは、はっきりと光や匂いが違う。「ここだけの」世界があり仏国土があってその宇宙が拡がっているのだ。それは何も鎌倉に限らず(けれど鎌倉という土地に極めて鋭敏に現れているが)、いま電話で話している等のあなたの住む任意の、たとえば河ひとつむこうの町に行くにも、私たちは空間だけではなくはるかに時間を越え異界を越えてゆかなくてはならない。言い換えれば計測可能なものからの限りない滑り行きとして、計測は実体の翻訳に過ぎないという意味において、人にとって土地がコスモスである意味が現象している。人が人を分かるとか分からないとか言う前に、まず土地の持つ光や匂いと同質のものの介在が必要とされるのではないか。
 楠と言えば荏柄天神にもそれはあった。この社は鎌倉将軍家をはじめ豊臣氏、徳川将軍家の代々にも尊崇されているが、もともとは鎌倉造営の際、鬼門(東北)に当たるこの土地に都の固めとして勧請されたものであるようだ。いまでこそ学問の神様だが、当初の狙いは恐るべき御霊神としての威力でもって鎌倉にとって邪なモノを封じ込めようという意図があったに思われる。そしてこの地が選ばれた理由は、漠然と単に東北の方角の適当な場所ということでなく、元来祀られていた神の座を拠り所にして、悪い表現だがいわばそこを乗っ取る形で天神が将来されたのではないか。社の裏手にひっそりと権現社という札が掲げられた岩穴があるのは偶然ではないような気がする。天神様に家を譲って、いまも両部の神は光を和げているのである。
 荏柄天神にも花は咲いていなかったので、鎌倉宮まで引き返す。ここでバスに乗り鎌倉駅まで帰ることにした。大塔の宮はターミナルなので坐って鎌倉まで行ける。バスを待つあいだ、天女さんと美江さんと私とで、折角だからというので三句付けを試みた。

 幾千の鈴ふるごとき楠若葉      天女
 春のかんなぎ物言はずして      解酲子
 バスを待つ一人の増えて遅日かな  美江

 このあと、小町の「奈可川」で早い宴をはじめる。皮剥キモのたたきあえ、さより。しこいわしは葱生姜醤油で。そらまめ、筍と蕗と若布の炊き物。酒は立山のぬるかんでやる。



「ゆぎょう  27号 」(2005年4月)


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