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航海記

     ――海の上に孤独はない。(ヘミングウェイ『老人と海』)



 もう長い間、燻製や塩漬けだけで、無塩の新鮮な魚にあり
ついていないので、女房や嫁には黙って漁に出た。あれから
三時間になる。いまは夏だからもうじき日の出だろう。ここ
いらは島の誰も知らない、おれだけの秘密の棚があるのだ。
真西にある月の光は弱いけれど、水中メガネで覗き込めば遥
か下方に、豪奢なきざはしやテラスみたいな岩場が彩りに満
ちて魚を招き、新しい海水が海流となって、酸素をたっぷり
含んで噴き上げているはずだ。東にはギザギザで鎧った城壁
みたいな雲がそそり立って太陽を隠しているが、あんな雲を
海でも陸地でもいままで見たことがない。トビウオじゃない
魚がこんなに海面上を飛び跳ねるのも見たことがない。変だ
と思ったら、どうやらうねりが出てきたようだ。素焼きの壺
に入った水は三日分、節約すれば五日分、持つと思う。真っ
黒で巨大な凧みたいな大風の空がやって来た。叩きつけるよ
うな烈しい雨。木の葉のように、とは言うけれど、その言葉
の通り錐揉むみたいに渦に沈み、三角波の突端に投げ飛ばさ
れる。帆は却って危険なのでやっとの思いでしまい込み、マ
ストも外す。思いもかけず襲ってきた波で舷側に頭をぶつけ、
失神する。それから幾時間、あるいは何日間経ったのか。気
がつくと海は凪いでいる。出航してきた港の島影はどこにも
見当たらない。羅針盤を見ても針がぐるぐる回るばかりで、
どれくらい流されてきたのか皆目わからない。頭は痛むけれ
ど、当分眠らずにいられそうだ。せがれや孫は心配している
だろうか。八月は祭りだから、扉口には色んな飾り物が並べ
られるだろうな。音楽隊は島の集落の持ち回りで務めなくち
ゃならない。いまアジサシがぽちゃんと言って魚を捕った。
金色の海藻の間からトビウオが飛ぶ。またアジサシが水面に
来たけれど、木管の音が聞こえるのはなぜか。二声、三声。
ああ、小太鼓も入って、さかんにトランペットがもの悲しい
旋律を奏でる。舟の両側に巌のように華麗な雲の山襞が拡が
っているけれど、その森厳たるエントランスに舟は導かれて
ゆくようだ。不意に耳元で、死んだ親父が網を繕っておけと
言う。それが終わったら水を汲んでおくれともっと昔に死ん
だ祖母さんが言う。いつのまにか花嫁衣装の女房が居て、何
やらきらきらしたものが降りそそぐなかで、いとこや村長も
交え、がやがやと喋る大宴を張っている。成年になった孫は
可笑しいことに男らしく、大きな魚を女たちに取り分けてや
っている。この舟が大広間にほかならないのに、みんなは小
人でもなく、舟が広大なわけでもない。みんな海の彼方に行
ったり来たりして、食べたり飲んだり歌ったり、飲んで笑っ
たり泣いたりしている。むすめのままで亡くなった叔母の顔
も、古い写真でしか知らないはずなのに、胸を締め付けるよ
うな寂寥のうちに垣間見える。おれは泣いているのかな?
/沿岸警備隊の拡声器でおれの名を喚いているのはあやかし
か。見ると舟には誰も居ず、音楽はとうの昔から存在しなか
ったかのように静まり返って、波が舷を叩く音だけが聞こえ
る。舟は曳航され、おれは毛布にくるまって島の港に帰って
きた。意識は鏡のように冴え返っている。島を出てから十日
経つという。信じられないことだが水は丸二日分と半分以上
余っていたそうだ。舟はもう使い物にならないので解体され
るため、ウインチで浜に引き揚げられて横倒しになる。引き
揚げられたその夜、あの棚にしか簇生しない海藻が舳先にま
でからまって、舟は一晩中、真夏のクリスマスツリーみたい
に輝いていたという。


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