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現前ということ



 平成十七年の鎌倉薪能は、有料化されてから初めての前年と同じく荒天のため中止かとの懸念もあったけれど、十月八日九日の両日、無事催行された。私の行ったのは初日の八日で、東日本の沖にはまだ熱帯低気圧がさまよっており、ときおり走る黒雲に雨粒がばらつき、社殿の背後の山を、物凄、とでも形容すべき風の塊が覆って、無数の木の葉木の枝を戦慄させていた。空気は生暖かく、能がはてたあとには震え上がる寒さの例年のようでは、とてものことでは、ない。じっさい風が強いので、火入れ式のときなど巫女の衣装に炎が燃え移らないかとはらはらしたほどだ。
 ことしの演目は能井筒[いづつ]、狂言柑子[こうじ]、能是(善)界[ぜがい]。鎌倉薪能の性格として考えるのなら、井筒はむろん名曲だが、むしろ「文学」としては他愛ない是界の方に私の関心は限りなく引き寄せられた。
 繰り返すが是界自体の筋は他愛ない。唐土の天狗の頭目、是界坊がかの地の慢心の輩は大方わがものとしてしまったので、こんどは日本に渡り、この地の慢心の輩を愛宕山の日本の天狗、太郎坊の案内のもとにみんなわがものとしてやろうとて、都でさまざまな禍事[まがごと]を為すうち、比叡の大僧正との法力合戦に敗れて再び唐土に帰って行く、というもの。
   こう書いてゆくとなんでもないようだが、絶えず風という名の透明な暗闇がうごいている裏山や、篝火、大きく揺れる四隅の笹竹のあいだに現れている仮面のわざおぎの声や挙措は、ちょっとばかり人間のフィルターを透して別のモノを見ているような気にさせられるのだ。われわれが舞台上に見ているものは、マッチの登録商標のような存在にまで零落し通俗化した天狗のイメージではなく、オオベシミ面の異形を通して示された、いま現前している鬼神としての天狗そのものなのである。わざおぎが放つその魂魄そのものに似たことば、こわねのつらなりは本来の意味の他に、倍音のようにもうひとつの意味が重なって聞こえるように私には思われた。例えばこんなところ、冒頭近くだが。

これは大唐の天狗の首領是界坊にて候。さてもわが国において。育王山清涼寺。般若台に至るまで。少しも慢心の輩をば。みなわが道に誘引せずと言う事なし。まことや日本は。小国なれども神国として。仏法今に盛んなるよし承り及びて候ほどに。急ぎ日本に渡り。仏法をも妨げばやと存じ候。

 たくらみの開陳であると同時に、「日本」にたいすることほぎという倍音も聞こえてくるのである。妨げるべき「仏法」というわざおぎの発声、わが道に誘引したもろもろの慢心の輩のいるべき「育王山清涼寺、般若台」ということば自体のめでたさともいうべきものが伝わってくるのである。次のくだりなど、是界坊によるほとんど心に沁みいるような大八洲[おおやしま]讃歌ではないか。

名にしおう豊芦原の国つ神。豊芦原の国つ神。青海原にさしおろす。天のみ矛の露なれや。秋つ嶋根の朝ぼらけ。そなたもしるく浮かむ日の。神のみ国はこれかとよ。神のみ国はこれかとよ。

 そしてこれらをはっきりと言挙げしたうえで、筋のなかでいわゆる悪さといわれるものを型どおり行い(しかし、その、超自然的な威力はすさまじい雰囲気を持っている)、いわば、型どおり調伏せられる(その調伏の威力も恐るべきものがある)。その間に、いわばより神的な高さを有した後ジテが登場し、ことばではなく「働」といわれる、所作に近いより動的な舞が劇の中心となって行く。
 舞台の上のこれらの所作を見てつくづく感じたのは、足を踏み鳴らし、頸を曲げ、体を南北にする、是界の悪、禍事の強さとしての所作の強さがそのままことほぎの高さになっているということだ。是界のような場合、そして大塔宮に奉納する鎌倉薪能のような性格の奉納舞の場合、聖なるものに悪をぶつけることは少しも忌むことではないというのは、よくよく考えてみるべき問題だ。忌むどころか、聖なるものの生き生きとした賦活に、それはしばしば繋がっている。悪の強さが、すべてsaintの高さへと変換させられているのである。言ってみれば是界坊の破壊力が強力であればあるほど、仏法は、日本は、いやそうではない、いまこの舞台に臨場しているあなたや私やのすべてのみんなは、同じだけ強力ななにものかのパワーのうちに保証されている感じがする。能が屋外で催されなくなってからも、昔人がさまざまな荒唐な仮面のむこうに何を見ていたか、感じていたか、なんとなくわかるような気がした。

 ここからちょっと別の話になる。是界坊が法力に負けたのは「比叡の大僧正」ということだが(天台山という言い方もしていた)、これを延暦寺のそれと考えていいのだろうか。そう考えるしかないが、というのも、ここ鎌倉宮に祀られている大塔宮護良親王はいちど落飾されていて、ひとたびは天台座主でもあった方であるからだ。まあ、すぐに還俗されて父帝の挙兵に加わったのではあるが。奉納演目はそのことも考慮に入れていたのだろうか。
 おもしろいのは、繰り返すようだけれど、廃仏毀釈の急先鋒みたいな存在にちょっと見には見えるこの鎌倉宮の神様が、本当はいやいやだったかどうかは知らないが、もともとは天台座主にほかならず、そこに奉納された能が唯一の家や国家神道だったら目をむくような内容の、神仏混淆のめでたいものだということだ。いずれにせよ伝統的なものは、そのつづいてきた時間の層が厚ければ厚いほど先鋭化することを避けなければならない。靖国などたかだか百年余の時間しか閲していないのに、あたかも歴史の古層を鋭利に気取っている。鎌倉宮を建立したのは明治天皇だが、維新のエネルギーがいかに南朝追慕に発するものだとしても、周囲がどんなに足掻いたって、明治天皇おんみずからは「朝敵」足利尊氏の意を汲んだ持明院統の流れを引かれておられる事実は厳然として動かしがたい。
 ともあれ、護良親王も含む大覚寺統の南朝が四代で絶えたことも、これまた動かしがたい事実で、けれどこれをわれわれ日本人は王朝が替わったというふうには考えない。天台座主やほかの住持や色んな門跡寺の法親王など、日本の寺社には王統に関係の深いさまざまがおわしますわけで、そんななかの「ウチの宮様」に捧げた「天台座主」の出てくる演目、ことしの鎌倉薪能是界にはそういう一面も、或いはあったのではないか。


初出「メタ  13号 」(2005年10月)


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