[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]



水晶宮



 初めて彼女を紹介されたのは私が十九のときだった。フル
ートをやる先輩の恋人としてで、フルーティストは彼女を詩
人から奪ったのだと言っていた。ことしで二十六になるとい
う彼女は私よりも、私の二つ上の先輩よりもずっと年上だっ
たが、にこにこと笑っているその美人の表情はそんな年齢差
があることなどとても感じさせない。一、二年たってから彼
女はこんどは彼女より二歳下の学生運動家に奪われていった。
どうもうまくいっていないな、と周囲が思いはじめたのはそ
の半年後くらいで、跡が残らない程度に叩かれていたらしい。
そういえばフルーティストにも時々やられていたらしいこと
など思い出したが、私に向かうときはにこにことしている彼
女には、恋人だけにしか見せないまったくちがった断崖みた
いな相貌があるのだろうか。独りになった彼女と意気投合し
たのは、私より二つ下のこれから売り出しというジャズピア
ニストで、才能と野心と性欲に充ちている案外繊細な青年だ
った。郊外の教会でふたりだけでひっそりと式を挙げた。グ
ランドピアノを置いた1DKのマンションでふたりの生活は
始まったが、毎日毎日八時間以上にもわたる狭い部屋での激
しい練習に、彼女自身の神経が次第に耐えられなくなってゆ
く。ピアニストのほうも音楽家特有の圧迫感から強いアルコ
ールに浸り、さらにアルコール以外のものにも手を出すよう
になって、鮮明な妄想に悩まされるようになった。彼がどう
しても理解できなかったのは、彼女がある時以降から夜、き
っぱりと彼を拒むようになったことだ。結婚しているのに。
さいごまで暴力をふるうことのなかったピアニストは、その
ことで彼女を諦める。ふたりは別れるが、彼女はこのときで
も九歳年下の彼を深く愛していた。やがて彼女は水晶宮のよ
うな狂気の館の女王となって、面会に来たピアニストを臣下
みたいに接見する日々を送る。やや症状がおさまったあと、
すでにピアノをやめた青年に誘われて、ふたりは睦まじい姉
弟のようにある霊を説くセミナーに入会した。もう永いこと
思い出しもしなかった。母がしきりに戻れと言うので、祖母
や曾祖母やそのまた母が住んだ古い屋敷の建つ、十数年後に
は壊滅するはずの、西の美しい町に彼女は帰っていった。

(覆された宝石)のやうな朝
 何人か戸口にて誰かとさゝやく
 それは神の生誕の日。
                          (「天気」西脇順三郎)    


初出「『ゆぎょう』第三十五号」


[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]