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言問い



 奥山のあちこちの湧き水の筋が細谷川となってやがて大き
な河の流れにそそぐように、私にも人並みに恋人と呼べるよ
うな女性が現れた。女性というよりは、私より一つ年上だが
まだ少女と言っていいくらいの、詩を書く娘だ。初め愛され
ているということがどうしても信じられなかった。いやほん
とうは、たやすくその現実を受け入れぬことによって、私が
愛されているという驚くべき事実をこの世から秘匿し、かつ
鍾愛していたのかも知れなかった。その年の秋の日差しが降
りそそぐなか、御苑や神宮や横浜の並木道を実によく歩いた。
デートと呼ぶにはあまりにも金がなかったが。たぶん、私が
彼女のことを好きだと言う何層倍も、私のことを好きかどう
か、彼女に訊いたのだと思う。彼女は私が思い描いていたよ
うな輝かしい言葉ではなかなか答えることをせず、けれど御
苑や神宮や横浜の並木道をひっそりと私に寄り添って歩きつ
づけ、ある書店の国文学のコーナーへ私を連れていった。万
葉集巻二、天智天皇の言問いとそれに答えた鏡王女の相聞の
ところを、彼女は黙って私に示した。秋山の樹の下がくりゆ
く水の吾こそ益さめ御念よりは。われこそまさめおもほすよ
りは。私はそのとき狂喜したのだろうか。むしろ、あしびき
の山のしずくに立ちぬれて途方に暮れた青年のように、無限
に深くて綺麗な悲哀の濤に打たれた気がした。絶対にあって
はならぬ幸福というものの実現。そんなものに人間は耐えら
れるはずがない。私は熱に浮かされ気がふれたピエロみたい
に、彼女に金の落葉の美しさについて、特権者について、神
から全速力で遠ざかる恐るべき神性について、夜の煌めきに
ついて、語りつづけた。同時に私は分かっていた。そのとき
彼女が私をどんなに悲しげな目で見ていたかということ。私
が彼女をどんなに傷つけてしまったか、ということ。秋が終
わりかけて本格的な冬が始まるころ、痛いほどの星の光の下
を彼女と何も言わずに長いこと歩き、私鉄の駅でおやすみを
言った。数日たって電話をして、私のほうから別れを告げた。

 酒のない瓶の内の
 コルクにつながれる
 ぼくらの咽喉
 ぼくらのかぼそい肉体
 秤とともに傾く美しい蛇
 ぼくらの眼は金の重みをもたぬ
 記憶すべきは太陽
                  (「静物」吉岡実)    


初出「坂井信夫個人詩誌「索」40号掲載」


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