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深き淵



 おれはもう詩はやめたんだ、と思って友人が社員でそこに
いた下水全般に関係する工事会社にアルバイトとしてもぐり
こんだ。友人自身も元はそこのアルバイトで、彼は私より一
足先に詩に見切りをつけ、高田馬場から通学バスが出る学校
にいた別の友人からそこを紹介されて天晴れ社会に復帰した。
別の友人はその学校の先輩にそこを紹介され、その会社の二
人の女子事務員はその学校の学生くずれで、気がついてあた
りを見回すと私の周りはすべてその学校の関係で埋めつくさ
れていた。そんな「先輩」の一人から、仕事が終わったある
夕、社員の友人と私は一緒に呼び出された。いい所に連れて
ってやると。待ち合わせたのは高田馬場駅の改札から早稲田
通りを渡った側で、迷路のような裏道に入ってゆくのだけれ
ど、こんなけもの道みたいな街衢は勝手知ったる人間でない
ととても怖くて歩けない。水の臭いから神田川が近くなのだ
と見当をつけた。やがて行灯のように仄かなオレンジ色の光
を放つ看板の、小さな店の木の扉を開ける。中に入ると甘い
痺れるようなサム・テイラーのサックスが流れていて、婀娜
っぽいが少し疲れたような四十年配のママが先輩を迎えた。
カウンターに案内され、ひとりひとりに女の子がつく。ここ
に到ってああそういう店なのかと初めて気づいた。私につい
たのはやせっぽちでソバカスだらけの、中学を出て間もない
ような醜い娘だ。店に出るようになって一週間もたっていな
いのではないか。何を話すでもなく、私の水割りをつくるほ
かはただ黙って私の体を両腕で抱き締めるだけである。私の
どこを触るでもなく、また自分のどこを触らせるでもなく、
若鶏ていどの肉がつくに過ぎないか細い少年のような全身を
ひたすら押しつけてくる。媚態というより私はまるでピエタ
の深い抱擁のただなかにいるような感覚に冒された。友人は
すっかり酩酊してジュークボックスで鳴る歌謡曲に合わせ、
店のママと抱き合って濃厚なチークダンスに身体を揺らして
いる。私もどれほど飲んだのかわからない。みんなを置いて
店を出たのだと思う。気がつけばひとりで山手線の内回りに
いて、渋谷をどう乗り継いだのか、東横線の最終の、郊外に
広がる荒涼とした銀色の照明群を泥酔の眼で凝視していた。

 あふれるおまえの赤い夜の川のなかで唯今、
 唇たちに吸われて唯今 おれが 唯今
 たしかに放らつだからこそ、ここに
 おまえが唯今いるからこそ、
 オッパイなんかあてどなく、
 彫りおこそう クソッタレ
 史乃命。しのいのち。      (「史乃命」岡田隆彦)  


初出「石川為丸主宰詩誌「飛燕」3号掲載」


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