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聖夜



 先生と初めてまみえたのは、高校に入ったその年だった。
両手にそれぞれチョークを持ち、黒板上に別々の文字を書く
という放れ業で生徒らの度肝を抜いたが、自分には屈折した
自己顕示欲があるのだという先生の言をどこまで信じてよい
のか、私たち生徒にはよく分からなかった。はなしたきっか
けは、斧入て香におどろくや冬こだち、という蕪村の句はあ
まり出来がよくないものですといった先生の解説に、私が難
癖をつけたところからはじまった。素晴らしく近代的な感覚
じゃないですか。放課後になって先生とまたはなしをして、
伊勢物語の虚無性について質問したら、伊勢物語に虚無なん
てものはないと思う、と私のヨシモトリューメイの受け売り
はあっさり否定される。ややあって、君うちに遊びに来ない
かと、下宿先の地図と呼び出し電話の番号を書いた紙片をく
れた。ある日曜日に、高校に入る前に書き溜めていた詩を携
えてどきどきしながらお宅を訪ねた。十篇ほどあった九割方
はさっと読んだっきりで、残りの長編詩を、ここと、ここと、
こことここはこう直したほうがいいねと、焼鏝でもあてるみ
たいに修繕したすえにほんの少し褒めてくれた。ふと気がつ
いて部屋の本棚を見ると、初めてお目にかかるような「現代
詩」や「現代思想」が汗牛充棟のさまで私を圧倒した。シュ
ールレアリスムというものを、漠然とではなく認識したのも
このときだ。ご実家にはこういった種類でない、先生の専門
に属する書物が唸っているとのことだ。こうして先生宅への
細基手の奈良通い、深草の少将の百夜通いみたいな、詩の講
義を受けるための通学ははじまったが、私の高校もご多分に
洩れず騒乱期を迎え、私も先生もその学校を結局は去ったけ
れど、詩の講義はそののちも、先生宅、喫茶店、酒場、とき
に牛丼屋のカウンターなど、東京の街のあらゆるテーブルの
ある場所でつづけられた。正月には黒松剣菱を提げて年始に
伺った。先生はこの酒は頼山陽もライサンしたんだと言って
慶んだ。私が旧約のアブラハムについて熱心にまくし立てて
いると、皿の上にのった酒のさかなのサラミをつまんで「こ
れは脂ハム」とのたまう。小林秀雄はいつでもなにかしら一
言多いんだと言い、ヨシモトさんに決定的に欠けているのは
象徴的思考ですと断言した。柳田國男は、民俗学をやらなか
ったとしたら何になりたかったんだと思う? と先生は私に
問うた。詩人ですか? と答えたら、少し黙って私のほうを
見て、政治家だとぼくは思う、と言った。経世済民の為政者
としての。そのときに柳田が民俗学を興したきっかけが、東
北農民の、子を間引く絵図を見た経験にあることを知った。
ある年、奥三河の花祭見物にご一緒した。新幹線から乗り換
えるとき、用意しておいたほうがいいよという先生の忠告に
従って豊橋の町で股引を買った。暖を取るのは焚火ではとて
ものことというので、清酒の四合瓶をコートに忍ばせた。酷
寒のなか、冷たいほむらのような酒を呷りつつ、繰り展げら
れるゲルニカみたいに鮮烈な神々の行列を凝視していた。昧
爽を迎えるあたり、道化の姿をした神に追いかけられ、額に
御幣餅のタレを黄金の血液のように印されたが、そのときの
私がはたちを過ぎたばかり、先生も三十を幾つか出ただけの、
ほんの青年たちにほかならなかったことが、今では不思議な
夢のようだ。

 思いどおりになったなら来はしなかった。
 思いどおりになるものなら誰が行くものか?
 この荒屋(あばらや)に来ず、行かず、住まずだったら、
 ああ、それこそどんなによかったろうか?
     (「ルバイヤート」オマル・ハイヤーム、小川亮作訳)


初出「「索」41号」


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