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祭笛



 神田駿河台で投石したことや、蒼黒い機動隊服にジュラル
ミンの楯を思いきり足の甲に落とされるといった、いわばお
おやけの武勲とはちがうワタクシの闘諍、いわば私闘(フェーデ)は、そ
ういう公式の戦争時代が終わったあとでも何回かあった。純
粋に個人的な怨恨というよりはいつもいくぶんか、過去の公
式戦争に関係したことが発端だったような気がする。そのい
うなれば戦後、はじめてしたたかに殴られたのは詩の会のあ
と友人の部屋で飲んでいたときで、詩の議論に女のことがか
らんだすえか、女の問題に詩の話がからんだすえのもつれか、
気がついたら深夜の御祖師様の門前で黒土の上にのびていた。
三発ほどくらって、前歯が二か所欠けた。次は中野にあった
学生寮での私闘で、あきらかに私の胸臆に重大の二文字が印
されるたぐいの失恋をしたとき、けれどこれも言ってみれば
女のことであり、それに係る詩のことであり、われわれの公
式戦争期のことに関わっていたけれど、やったのはたいした
ことではない。先輩の部屋で「別れの朝」というドーナツ盤
を繰り返し回転させながら、買ってきたいちばん安い二級ウ
イスキーをひとりで一本空けたあと、私の後を追って高校を
中退し、私の跡を襲ってこの学生寮の厄介になっている後輩
の大男にあとさきもなく殴りかかった。当然組みしかれ、逆
にこいつこの俺に何の恨みがあるのかと思うほど殴打された。
じっさいあんな赤子の手をひねるみたいな泥酔者をやっつけ
て何が面白かったのだろうかと今でも不審である。翌日、先
輩におごってもらった狸蕎麦は切れた口中にしみた。先輩は、
中野じゅうのその筋のお兄さんがお前を見たら青くなって道
を譲るだろうよと笑った。鏡を覗いたら、紫色に腫れあがっ
た顔は顔として、白目の部分に稲妻みたいな鮮血の色をした
ひびが入っていた。さいごは新宿歌舞伎町の端の仮普請めい
た店が並ぶ一角で、別の友人と大晦日の一夜を明かそうと、
ほかは閉まっていたので初めてのその酒場に入った。カウン
ターには私たちがいつも行く店の常連の男がいて、彼はその
店のインテリのママに可愛がられている。少し粗暴な感じの
する瞳はつねに苦しげで、彼が大きな矛盾を生きていること
を思わせたが、時に深い憧れの揺曳もそこに見た気がする。
花園神社の祭礼の夜に、神輿舁きがえりの法被鉢巻姿でイン
テリママの作る酒に酔ってはしゃいでいた。その彼が、今夜
この店に入って音楽と詩の話をしはじめたわれわれに振り向
きざま、突然奇声をあげて殴りかかってきた。彼の頭を抱え
込んで防戦したが、そのとき右手の親指を血が噴くまで噛ま
れた。店主が懇願するので金を払わずに店を出たが、入って
はいけない場所というのがこの世にはあるものだと知らされ
た。私の指(および)を噛んだ彼はまもなく南のほうの故郷に奔り帰
り、海にそそり立つ岬から恋する貴種のように身を投げたと
聞いたけれど、そのまなかいに広がっていたはずの、いちめ
んの海の青さはどうであったか。

 祭笛吹くとき男佳かりける (橋本多佳子) 初出「「COAL SACK」55号」


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