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舟泊(ふなはて)



 金剛のように冷たい光が降りてくる八月の晴れ間、家の近
くの生麦の駅から京浜急行に乗って東京に出た。妻とふたり。
冷たい光が徐々に烈しさを増す午後、どこか影を奪われたみ
たいな人々が行き交う雑踏を抜け、ビルのなかを昇降し、用
事を終わらせたあと本屋に寄ったり鰻を食べたりして時間を
つぶす。夕方には横浜に行かなくてはならないが、ふとここ
が池袋なのだと気がついて、横浜まで直通で行く湘南ライン
というものに乗ってみようかと考えた。妻に伝えるとむすめ
みたいにわくわくしている。JR池袋駅二番線。となりの一
番線にはりんかい線が停まるということを初めて知った。湘
南ラインは大崎まで埼京線を使うのだけれど、その埼京線の
軌道は山手線とほぼ同じ。どんなに沿線が変わったかと思っ
たが、そこに見たのは晩夏の光を浴びた三分の一世紀ほど昔の
東京の街と異ならない。ただ少しずつ、劣化し褪色し、沈ん
でゆく太陽のような。大崎からいきなり、横須賀線に接続す
るための長いカーブに入る。普段は使わない横須賀線の、西
大井を過ぎたあたりから、どこを走っているのか方向と時間
の感覚がおかしくなる。住宅街を走っているのだが神社や児
童公園や小さな墓苑のようなものも見える。やがて多摩川の
渡河に至って神奈川県に入ったことを知るが、京急川崎駅か
ら見てだいぶ北のところを走っている他は皆目見当がつかず、
見知らぬ土地を行く孤独みたいなものが身に添う。ほんとう
にわれわれは横浜に行くのか。遮光ガラス越しの冷たい光を
浴びて、妻は幽かに寝息を立てている。また轟音をあげて鶴
見川を渡る。線路の左手にふいにいつもの鶴見神社が見える。
鶴見駅の手前で東海道線や京浜東北線と合流したのだ。しか
しそこで下車するのでない私の感覚は元に戻らない。なんだ
か青空の下で輝いている鶴見の駅舎の白壁が、ずいぶん遠い
ものに思えるのだ。やがて最初にそこから乗ってきた京急の
生麦駅が姿を現す。光に霞んで、ほとんどなつかしい思い出、
もう手の届かない若い日の記憶のように。ビール工場の巨大
な二本煙突を過ぎ、高速道路が跨ぐ見えない入江のむこうか
ら、モネの筆致みたいな無限の光の札(さね)に痙攣するランドマー
クタワーがゆっくりと出現してわれわれを迎える。自動ドア
が開き、妻と私はホームに立つ。だが、私たちが到着したこ
の横浜とは、ほんとうは何処なのか?

 いづくにか舟泊すらむ安礼の埼こぎたみゆきし棚なし小舟
(高市黒人)


《*今号の「リタ」が初出》


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