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花よりほかに ――堀川正美に捧ぐ7



きさらぎの春はアパートの鉄の階段からもやって来る
そのもちづきは河原に住むものの青い柳の枝の乱れごしに
だが氷の高貴さで揚がりつづけるだろう
かわぎしにせまる悪夢のように華麗な高層建築の明滅を見おろして
春死なむ、やつしやつして、倒れふすまで世を
阿羅野と見る、ススキのつのぐみ
つわる蕾
そのきさらぎのもちづきのころに
花は
街のあらゆる透き間から爆発的にひらく、はなひらく
暗い生垣にはスミレの青いほむらがゆれ
ロウバイの匂いの円柱をよこぎってゆく見えない女神の腋窩にとつぜん
あらそって出来する黄色い乱暴なレンギョウの密集
こわいくらい美しい人の嫉妬みたいなジンチョウゲの蒸発する果て
雲の間隙にくりひろげられる群衆遊楽する洛中洛外図のような
あるいは稠密な地獄変によく似たこの晴天の日々は、ながくはつづかない
はためくものが西から到来して
やがて
すべてを飛び散る線条のうちにとじこめてしまう
遅げなる花を追って海道の点線をぬすびとみたいにはしりつづける
いつとしもなくこの春は迅くして心は花に後れぬるかな
飛び散るもののとどめがたさを中断でしか終わりのない葦手になして
太平洋の孤島からはじまるなにごとかの細大にみみをすます
雨があがったあとのアスファルトには
ふくざつな陣取りゲームのローセキの線がめまいのように引かれ
かぶとむしやお姫様の部屋をとおりぬけていった子どもたちは陣から脱出して
もう、だれもいない
どこにも、もう
升酒の白木の升のたたずまいで鎮まる
神明社ぎわの神籤みたいな白いコブシの花に描かれた文字を
読み解くものはいない
塩は消えて
子どもたちが去ったあとの、せまりくるゆうやみに
カラタチははがねのようにするどく尖り
やって来るなにものかにむかって身がまえる
乞丐がにぎる草や
ブローチみたいにふるえる金星
巨きな花の影で
けれどふたたび世界が匂いだすころ
あらゆる鉄の階段という階段のわきのしめやかなくらがりで
仮定といういましめから溶けだした無数の私は、もろともに思え
だれも行けない山中の無に咲く
あはれ
私と
花よりほかにだれも
知る人もない、山桜。


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