[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]



伝世ということ ―志野と織部



 春彼岸、うらうらと晴れた日、墓参のついでにいま出光美術館で開催されている「志野と織部」展を見に行った。寺は郊外だが、最寄りの線がそのまま地下鉄に乗り入れているので、有楽町まで行くのに比較的負担が軽いのである。

 この展観は、絵付けの意匠にさまざまな意味(主に神話的な意味)を読み取るというコンセプトだが、のっけから純粋に焼き物に接する醍醐味を存分に味わわされた。発掘物は割合に少なく、主たる展示品は伝世の品である。

 第一印象はなんといっても伝世品の持つ、良く言えば迫真性、悪く言えばあくどいまでの生々しさであろう。発掘物には、同じ窯から出た同デザインのものでも、すがすがとした端正さがあるのに対し、伝世品は人の手で指で皮膚で、触られ撫でられ尽くしたためかと思われる幽かな青光りのようなものさえ発している。その光にはもうひとつ、人の眼で徹底的に見尽くされたという要素も交じっているのかも知れない。

 焼き物などで特に痛感するのは、これだけは実物を実際に見てみなければ(許されるなら触ってみなければ)絶対にわからないし、その焼き物についての何ごとかを人に伝えられるものではないということだ。

 これはたまたま連れ合いが気づいたことだが、銘「蓬莱山」という志野茶碗を見ていたときのことである。ご存じのとおり、桃山期の茶陶は、例外はあるけれど中国の陶磁のような均一な滑らかなフォルムとは異なって、已みがたい欲求のように、膨れ、窪み、わずかに(あるいは大きく)歪んだ姿態をとる。この「蓬莱山」も、轆轤を使ったうえで、ヘラを用いて全体に奇妙に歪んだ螺旋状の動態を思わせる形に仕上げられていて、その線や凹凸に添って錆や金色に発色する釉薬がほどこされている。茶碗の口は割合に丁寧な薄手につくられており、赤錆の釉薬がそれに添って走っているかと見てみれば、口の稜から逸脱して外や内にわずかに不規則に波を打ちながらぐるっとまわっている。

 これは展示ケースが裏からも見られるようになっているのでわかったことだが、裏にまわってみると、茶碗の手前の波形が、口のさしわたしの向こう側の波と合わさって、なんと一対で初めて出来上がる組み合わせ意匠になっているではないか。

 それと並んだ展示ケースの銘「峯紅葉」という鼠志野茶碗(これは重文だそうだ)にも同様のからくりがあって、こちらは口のすぐ下手前、碗の外側の亀甲文様が、見込みあたりに数個蝟集する亀甲と入れ子のように組み合わさって、なるほど、低い山から山を見渡したおりの峰の稜線ごしの紅葉のふぜいと首肯されたり、同じく口のすぐ下向こう側の、これは碗の内側に描かれたヒガキだかモガリだかの文様が、高台より少し上方の手前外側の絵付けの同じヒガキやモガリやの文様にそのまま、あるいは少しずつずれゆきながら連続してゆく、といった具合である。

 焼き物の肌の色や質感、フォルム、絵付けの興趣あたりに低回していた身としては、こんな見方で人から人へ、代(よ)から代へ伝えられてきたのかと、焼き物のことをまったく新たに考え直すきっかけたるべき発見となった。ある文化的コンテクストという意味での「伝統」からいったん切れてしまうと、途端にまるでわからなくなる、例えば銘の、(多く歌に拠るところのもののようだが)その由来など、実はこんなところに存在していたのかとも実感されるのだ。こういった、眼ばかりでなく手指を用いて賞翫する焼き物という、日本のそれは美術品と言うより道具と言ったほうが適切かと思うが、その存在(在り方)は上述したことと同じ事情から拠ってきたる、以下のような事態をも惹き起こす。

 昭和五十八年に出版された『古美術の目』(安東次男著、筑摩書房刊)のなかの一文、「直しということ」において、アンツグ師が「見込に、かなり大きなくっつきが一つとび出ている」灰釉の天目盃を道具屋から「三千円」で買ってくる話がある。過去の持ち主(たち?)により、四か所も金銀で(金は蒔絵で)直しが入っているのに、箱はない。「買ったからには使ってみないという法はない」というのが持論のこの新しい持ち主は、その盃にさっそく酒を注いでみる。すると、「手品みたいなことがもちあがった」。



  当りまえのことだが、濡れると焼物は肌が変る。とくに日本の焼物の良さは、そこにある。盃の見込に厚くたまった深いオリーヴ色の釉から、白けた軽石のようなくっつきが無様にのぞいているはずだった。それがそうでなくなったのである。白、茶褐色、朱、いろんな色が酒の底から現れてきて、くっつきはもう単なるくっつきではなくなった。おまけに、鮮かなコバルト色の点やら、細い縞までも、所在に浮んできた。くっつきだけではない。オリーヴ色の釉だまりの中からも、このコバルトの点や縞は現れてきて、さながら引潮に洗われる巌がそこにある感じになった。これにはすっかり参った。その瞬間、私には、いっさいがわかった。いっさいがというのは、手のこんだ蒔絵直しまでして、この盃を愛用した変り者の心理だけではない。見込のくっつきと向合ったかたちに波を、くっつきが背に 負うかたちで菊をあしらった、小面にくい(とはそのときはじめてわかったのだが)蒔絵意匠の意味もである。そして、伝世の心とはなるほどこういうことか、と改て知らされもした。(116〜117頁)



 これに付け加えるべきことは特にない。以下は志野の展示室から織部のコーナーへ移ったときの、ちょっとしたショックから思ったことを、少し書く。



 アンツグ師がもとめたこの天目盃は、「室町初期ぐらいまでは時代をもってゆけそうな瀬戸古窯」のものだそうだが、くっつきやオリーヴ色の釉だまりがあるとはいえ、フォルムじたいは(写真の図版で見ると)ある端正さを保っているようである。だいぶ形に恣意というか、かっちりとしたフォルムに縛られない自在さが出てきた志野の焼き物たちにも、ある種の端正さというか、形のあえかさがあって、その一種の無欲なところが、賞翫する者たちのいままで述べたり引用してきたごとき、ちょっとした工夫や見立てによるたくらみを可能にさせてきた面があるように思う。 

 これが織部となるとがらりと様相を変えてくる。黒織部のこのまがまがしいまでの存在顕示はどうであろうか。その黒さは火を噴くようだ。織部で銘のあるものは少ないが、黒織部に「餓鬼腹」というのがある。志野の銘の命名が焼き物の肌の景色や文様、絵付けにひっかけた歌由来のものが多いのに対し、「餓鬼腹」という銘はその器の空間的造形そのものにかかわると言っていい。その形は中世絵巻(殊に『餓鬼草紙』等)にお馴染みの、異様に痩せた胸部とぽってりした腹を持つ地獄の餓鬼の姿じたいを直接に想起させる。ある意味で織部は徹底的に空間的なのだ。その空間性は、志野においてあえかな銘の命名法に見られた嬉遊の構造を、言い換えれば銘という名の時間性を、やがて強烈に締め出してゆく。茶碗の銘であるべかしきものは織部において、フォルムのうちに自己を実現させきってしまっているのではないかと私は考えるのだ。譬えて言えば、志野で神事であるものが、織部ではくろぐろとした祝祭となっている、ほどのちがいか。

 銘があるということ、伝世の品であるということは表裏の関係にある。織部の伝世の側面や銘の存在を無視するわけではないが、世々めでられつづけてきた志野のあえかさに、やはり惹かれる。春彼岸、私は新聞で見たこの碗に逢いに行ったのだ。霧のような、春霞のような水気にみちた大気の中に弓なりの橋の影が浮かんでいる。志野茶碗、銘「橋姫」。源氏物語の詠やそのほかのさまざまな「原曲」あえかな変奏曲はあろうが、おおむねこの歌の形にいったんは収束する、古今のよみ人しらずの一首に拠るものであろう。



 さむしろに衣かたしきこよひもや我をまつらん宇治の橋姫


[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]