[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]



――私の小倉百首から



雲のかよひ路


  五節の舞姫を見てよめる
あまつ風雲のかよひ路吹とぢよ乙女のすがたしばしとゞめん  僧正遍昭

 涅槃のような金色の絶対的なねむりからひき戻されて、目
がさめると十二畳ほどのがらんとした和室のかたすみにいた。
そのとき二、三人の男が同室していたけれど、こちらのほう
は完全に無視している。中年の女性が入室して、枕元まで来
たのを見ると、それが看護婦であるとわかった。それから数
刻のうちに順を追い、ここが精神病院である事実が段々と判
明してきたのだけれど、それは誰もが日常でふつうにおこな
っていることを次々に禁じられる、という儀式を通してのこ
とだった。私はある種の混乱と昏睡のすえにここにやってき
たのだ。施設は男性病棟と女性病棟とに分かれていて、その
二つの部分の住人が中央のデイルームで出会って、作業をし
たり会話したりするようになっている。そこで私はおもに若
い女性患者から、頻繁にたばこをねだられた。その結果にお
およその見当がついていたので、どんな場合でも一本もやっ
たりしたことはなかった。それでも次から次へと無心された。
あるときはそのなかのひとりが私のために、ガールフレンド
でも紹介するように彼女の友だちや別の友だちを連れてくる
こともあった。拒食症の少女がエンピツのようにほそい腕を
組んで歩きまわりながら、この病院にいたる身の上話をした
挙句に上目遣いにこちらを見、一本のたばこのために私を誘
惑することさえあった。何度ことわっても同じことだった。
これではたばこをやってもやらなくても大したちがいはない
のではないかと思うことさえあったが、その一本を誰かひと
りにやるだけでもう元には戻れない、インフェルノの業火を
頬に感じた。これが病気ということなのだ。彼女らのなかに
は、恐ろしいほどの美人なのだが、永遠の責め苦を受けてい
る能面「痩男」みたいな眉根で、小川から揚がったなきがら
の冷気を感じさせる女もいて、たまはがねの硬度の沈黙を守
っている。ある運動の時間に、晴れた空のしたのグラウンド
にみんなといっしょにしゃがんで運動療法士の説明を受けて
いたとき、彼女がとなりにいた私に聞こえるように「ホラ、
チョウチョ」とつぶやいたのは、私だけが幻聴した夢のよう
な世に属することがらだったのか。会議室の窓にもたれ、い
つも外をながめるのがならいだった別のむすめは、冬が終わ
り、世界中が紅潮したような水気に充ちたうるわしい三月の
午後、絹を裂くみたいな叫び声をたてつづけにあげて職員に
連れてゆかれた。あれは歓びでもなく、悲哀でもない。たぶ
んこの世とは異なる世界からの呼びかけを、翻訳することも
せずにそのままつたえたものだった。別の世に属するひとび
とにとって、この世でのわが身のことなど、どうでもよいこ
とではないか。彼女らはいずれ、ほの蒼いオリュムポスに帰
るのだ。

 


(「tab」9号より)

[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]