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音楽の歓び


 tabの連衆のひとり、高野五韻さんが最近みずから制作した、ホーメイを主とするアルバムを送ってきてくれた。ホーメイは地域によってはホーミーともいい、以前から知っていた、かの倍音声楽とも言うべき音楽のことを、私はそのホーミーという名で認識していたものだ。
 しかし実際、こういう形でまとめて聴いてみると(本当は生で聴きたかったが)、聴く前はあまり考えてもいなかったその豊饒な迫力に圧倒された。五韻さんは自分はまだまだと謙遜し、また事実もっとすごいホーメイの使い手(?)も日本の巷には居るらしいけれど、それでも剥き出しの実在に出会ったときにのみ感覚されるような、新鮮な現実の切断面がそこにはあった。
 ホーメイはまず腹の底から唸る声というのがあって、その基層の上に金色に燦めく倍音が出現する、というようなものなのだが、腹の底からの声とは非常にわれわれの耳になじみのあるだみ声、ある年代から先は広沢虎造の浪花節のようなしゃがれ声、と言ったら通りがよいのではないかと思う。そしてその上に現出する金色に燦めく声は、唸っている本人ではない、なにものかの、どこかはるか彼方からの到来を思わせて、聴いていながらほとんどナルシスティックな状態に陥っているみずからというものを発見する。
 この状態は五韻さんも報告していて、実際聴いてみて彼のその形容が、昨今はやりの言葉で申せばポエティック・ライセンスめいた「詩的な」表現というのではない、きわめて正確で犀利な記述であることを、私は改めて確認した。もっとも私と違い、五韻さんはまさに「唄っている」当人であり、そのパフォーマンスのただなかに体感された感想であるのだが。
 これも五韻さんは同じような感想を書いていたが、ホーメイを聴いていてその倍音が出現し、持続している間は、雲海の雲の間に無数無限のきらびやかな菩薩が涌出顕形(げぎよう)するさまを思わせる。いわば圧倒的な他界の出現を見るのだ。この印象の出どころをよくよく探ってみるに、それは基層を成すだみ声が僧の読経する声(群)と非常によく似ているからではないか、ということに思い至った。その厳めしさ、荘厳の感じから、最初は声明(しょうみょう)のことを思ったが、もっと身近なものと考えて、声明のもといを成す経読む声、という古来からの日本の生活文化にはなじみ深いものに、より近い感覚なのではないかと勘づいた。
 経読む声というのは、日本文学などでは、昔から歌や物語の印象的で重要な箇所や、俳諧の発句や付け句などでわれわれには親しい。当然能楽の詞章や常磐津や長唄の歌詞、(おそらく)工芸美術のモチーフとしても、生き長らえて深く浸透しているものだ。
 その読経によく似た低音のだみ声の上を、まばゆい魚鱗のように最高音的な倍音が跳梁し痙攣し、戦慄すべきパルスとなってアルタイの空の深いところで伸びちぢみするのを目撃するがごとき体験を、ホーメイはわれわれに与えてくれる。
 ホーメイを聴いてなにかしらなつかしいものを感じたのは、たんにその東洋的な五音音階に近接したメロディラインのみならず、このだみ声というもの、十九世紀に発達の極に達したかと想像できる西洋近代音楽ではまず考えられない、このだみ声への執着に、われわれの、特に幼時に接した父祖の匂いを嗅いだからに相違ない(西欧の音楽に、一般的に濁った低音が存在しないと言っているのではない)。
 謡や狂言の発声などもそれに入ると思うが、日本の古来からの声楽に見られる、必ずしもだみ声とは限らないけれど、声帯にある種の緊張が惹起され、かたちを改めて発声された声というものは、たとい澄んだ高音でも、だみ声と共有する「通路」を通って空中に消えてゆく。この微妙な通路にわれわれは耳ざとくもなじみのある(日本もそれに含まれるところの)アジアを聴きつけるのだ。
 だみ声は先ほども述べた浪花節をはじめ、講談・講釈師、演歌師、香具師、平曲をかたる盲僧や説経語り、また、浪花節うたいと同じく一度は喉をつぶして血を流すという文楽の太夫はもちろん、八百屋・魚屋の呼び込みの声や、パチンコ屋の店内放送、電車車掌の車内放送の声にまでその継承が認められるのではないかと思う。私は個人的には、はるか古代からの唱道文芸や放浪芸にこれらの淵源が存在すると考えている。これは日本列島という地域に限られた話ではなく、東北あるいは東アジアというスケールで思い見るべき問題なのだ。
 ホーメイのその倍音部ばかりではなく、じつはこのだみ声を発するという動作そのものから、「他界」は立ち上がっていると見たほうがよい。これをいいかえれば、あらゆる演芸的なもの、芸能的なもののひどく特徴的な「濁り」の要素、近代的な観点から眺めて、そこに必ずからまる「下司っぽい」あくの強さともいいうるものは、ただの身体の動きが舞踏に移行するときのような、それ自体なにものかの立ち上がりの前兆というべきであり、ほんとうは無形の弾機のように作用して、ヒトという存在をホーメイの倍音部のごとき天上的な領域に繋げているのだと思う。ここにひとつの秘密の機制がはたらいているのだ、現世的な眼からは世界の真裏のような場所に、絶対的に隔離されているところの。
 昔のひとはだみ声による読経のひまひまに、たしかに阿弥陀仏や聖衆の顕現を見たに相違ない。心の目で見たと言っても生理的に視認したと言っても、それは同じことだと私は考える。ホーメイが感動的なのは、そういう事実、現象には「源流」があるということを、知識としてでなく(いや、仏教的な意味で使われるところの知識として)、神経生理的に体感させてくれるからなのだ。
 今回の五韻さんのアルバムに話を戻せば、あんまりきっちりと作り込まれていないことに好感を持った。三線のへなちょこ感や、ホーメイでも高度な技術に属すると思われる「スグット」を用いた『500マイル』などの力の抜けようは、ある意味、草書による走り書きのようなおもむきのライブ感があって、これは具体的なある時、ある場所で、ある生きたヒトによってたしかに唄われたものだ、という、動いているものの動きをそのものとして定着させた感覚がより強い。
 じっさい、『500マイル』など、ホーメイと合わさって歌謡として思わず聴き込んでしまったが、忌野清志郎の詞「おさえて、おさえて、おさえて、おさえて、悲しくなるのを、おさえて」というところで、80年代ごろの東京や地方都市の、ガソリンスタンド、廃車置き場、ブルースの流れる落書きだらけのバーやいろんなことの幻像が、倍音に似てそれこそ無数の輝く如来のように涌き起こってきて、なんだかたまらない気持ちになった。まあ本筋とは関係ないが。




(「tab」9号より)

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