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洛中洛外図


 東のほうで声があがる。くれなゐに塗られた方広寺大仏殿
の威容が鳥辺野に盤踞している。妙法院横での闘諍で、わき
ばらを槍で突き貫(ぬ)かれた男が氷のような眼をして、槍を持つ
男の肩を斬り割っている。軍鶏をけしかけるように煽りたて
る社僧。尼僧と密会する七ツ下がりの阿闍梨の横を、音羽の
滝で水を汲んだ水売りが謡いつつ過ぎる。どこかしら壊滅の
香りをひめた豊国廟の桜はいまを盛りと咲きにおい、昼酒で
胸が悪くなった雑兵くずれが花の木の根元に嘔吐する。こん
じきの雲間から、やがてあらわれてくるのは、暗い静脈のよ
うな鴨川の川筋。川に沿って走るつちけ色の伏見街道を北に
辿るにつれ、だんだん大きく聞こえてくるのは笛太鼓、床を
踏む音だ。目睫に見る、五条大橋である。物売りや物乞いが
社寺に許されて居を構える板の上、貴賤(きせん)群衆(くんじゆ)が花咲く枝や青
柳の枝を手に持ち、扇とキヌガサで天から到来するものを呼
び寄せ、おもしろう狂うてみせる狂女みたいな恍惚のうちに
弓なりに撓り上がる橋の中央に蝟集して、烈しく足を踏み鳴
らし踊る。四肢を捩(よじ)り、自分自身を拉し去るように。そのま
ま人の群れは此岸から彼岸へ、六条三筋町の悪場所へ雪崩れ
る。ここでも笹や菖蒲、牡丹を手にした女らが踊る。編笠を
かぶり、顔を扇で隠して女たちの値踏みをする男たちの蜥蜴
みたいな両眼。四半刻ほどの妻取りののち、霊となって脱皮
した鳥の目(バーズ・アイ)は東寺から室町通りに抜ける。西北の方角から、
通奏低音のような、だが高い透度(クラリテ)を帯びた金属質の音が響い
てくる。勧進聖、歩き巫女や山伏、椿の枝をかついだ熊野比
丘尼などとすれ違い、角を曲がれば、莫迦げた巨大さと陽気
さの、天道虫みたいな母衣(ほろ)武者が三騎、しずしずとこちらに
向かってくるのに会う。極彩色のアフリカの仮面のようにも、
また女陰の大哄笑のようにも見える。そしてここでもまたお
びただしい貴賤群衆。コンチキという鉦の音、刀槍、キヌガ
サ、叫び声。人声のあいだから、だがそれとは明らかに異な
った、律動をともなう喊声が入り交じる。もうひとつ角を曲
がると、六角堂のほうから扇を翳した大群衆が、殺意を立ち
昇らせる軍勢のように一斉に殺到してくる。冷えびえと神気
をほとばしらせ、ほとんど意識を失くしたかのように踊りな
がら。狂いながら。振りあげた幾千の両肱の密林から、やが
て八坂の神の朱(あか)い小さな神輿渡御が出現する、高貴なまがご
とのように。

*東京国立博物館で展示の実物と、奥平俊六著『町のにぎわいが聞こえる 洛中洛外図[舟木本]』(小学館)を参考にした。



「tab」10号(2008・5・15)より


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