[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]



花さそふ ――私の小倉百首から


  落花をよみ侍(はべり)ける
花さそふあらしの庭の雪ならでふり行(ゆく)ものは我身なりけり  藤原公経

 ローマの夏は木陰が涼しく、路上に出たテーブルと椅子で
昼食をとった。葡萄酒は呷った瞬時に皮膚から蒸散してラツ
ィオの高い青空のどこかへ消えた。牛胃の煮込みやフンギの
ソテー、オリーブの実のたくさん入ったサラダで上機嫌にな
ったところで、亭主が出てきてグラッパはどうかと聞いた。
ここはテヴェレの三角地帯(トラステヴェレ)という下町で少し危険なうえ、帰
らなくてはならないホテルまではだいぶ歩くことになるので
それを断り、後ろ髪を引かれるようにしてリストランテをあ
とにした。大理石とその大理石の輝きに似た透明な光はこの
街に遍く満ちていて、ジプシー女が裕福と一目で値踏みした
アメリカ人観光客のまえで大げさに赤ん坊を泣かせたときも、
それを見ていた妻のポーチがカミソリで切り裂かれているの
を見つけたときも、それらがローマの透明な光のような大い
なる理法のもとにあることを却って痛感させられた。結婚し
たばかりの私たちは、その夏の旅のなか、ナヴォーナ広場で
一回けんかをし、バチカンからローマ市街に戻るときに一回
道に迷い、カプリに渡る船路の途中で永遠に別れ別れになる
ところだった。家に帰ってきてもしばらくは、この夏空の真
昼の青さが、オリーブオイルや大蒜やバジリコの香のたつあ
の街のおもかげと切り離しては考えられなかった。毎日がき
わめて小さな歓びの爆発をともなう祝祭だった。仕事のない
日のひるどき、ふたりで思い切って降りたことのないバス停
で降り、リキュールショップで安売りの赤ワインを入念に選
び、レトルトパックのトマト・リゾットを買った。家でワイ
ンを開け、なんともなさけない味わいのリゾットを食べた。
おいしいと妻は言い、グラスについだ安ワインのうちに、私
はかすかに玄妙な風を聴いた。まだ夏はつづいていて海の彼
方に雲は騰がり、見えない場所で盛(さか)っているカーニバルによ
って世界は白熱したコイルのようにふるえている。妻も私も
まだ若く、疑いも、疲れも知らない。日に灼けてゆくその写
真の奥処(おくが)は、いつのまにか華やかに黄ばみ、ほとんど霞んで
いるのだが。



(「tab」10号(2008・5・15)より)

[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]