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若冲綵絵


 ある長い時間の尺度をとって、ひとつの文化文明の頂点とみなされる時期はたしかにあり、それは、ほぼ日本語を母語とするわれわれの居る地域の時代区分で言えば、江戸期がそれに当たるのではないかと私はひそかに思っている。その江戸期の中でもさらに絶頂と考えられるのが、伊藤若冲がさかんに絵筆を動かしていた、西暦でいえば十八世紀中葉にあたる、宝暦、明和、安永にわたる時期の京・大坂であったと、これはかなりの確信をもって言い切ることができる。
 思いつくままに名を挙げていっても、同時代人には、若冲の周囲を見ただけでも、相国寺僧・大典顕常、木村蒹葭堂、売茶翁、また同じ京には、与謝蕪村、池大雅、円山応挙、大坂に近松半二、名古屋には、加藤暁台、横井也有、江戸には平賀源内や司馬江漢などがいて、私などはため息が出てしまう。この宝暦から安永末年に及ぶ三十年間、それ自体永遠に接続したきらびやかな仏国みたいな時間が現出したと想像できるのだが、やがて東日本では天明の大飢饉、京では天明の大火によって、この奇跡のような日々におおきな翳りがやって来る。事実若冲も京を襲った天明の大火によりみずからの居を焼かれ、伊藤家と若冲が深い由縁を持つ大刹・相国寺も焼亡する。晩年の最後まで衰えることなく絵筆を動かしていたようだが、若冲八十五翁、みずから刻した多くの羅漢の石像に囲まれて示寂したのが寛政の御代が終わる前の年(一八〇〇年)で、翌年からはじまるキリスト紀元十九世紀には、すでに幕末の干戈のひびきは忍び寄っていたのである。
 こうした、若冲の生きた時代とは一口に言うが、現在と異なるどんな時代でも、とりわけて古い時代の作物について、何かしら言及する場合に考えなくてはならないのは、その時代にそれをものした意識というのが、現在と異なっているということ、そしてそれはディテールに渉りかなり論理的に徹底しているということである。別の時代のことを具体的に考えるとは、こうした眼のいわば「異なる光学」みたいなものが必要だと思う。
 それかあらぬか、洋の東西を問わず絵には画題というものがある。画題とは、日本の詩に譬えていえば、長歌に付属して反歌というものがあり、そこから反歌が分離して和歌となる如き、背後にエピソードを引きずった、和歌当体やまたその兼題のようなものである。この長歌のようなものから独立したのが近代絵画であり、独立しきれていないのが近代以前の絵画や芸術だ、という言い方もできる。
 古い絵はほぼすべて、この画題に依らないものはないと言い切ってよいと思う。画題におけるあるテーマの反復は、背後に隠されている寓意の存在に連なるものだ。歌で言えば、まだ和歌が命脈を保っていた中世前期あたりまで、歌の詞(ことば)の端々に古代の神話的生活の名残を匂わせていたわけで、和歌が和歌として存立していられたのは、長歌をさらに遡源したそのような神話的世界が、未だ歌の背後に生きていたからだと思う。いわば和歌は、長い叙事的時間を背後におりたたんでいるのだ。譬えが長尺になったけれど、ちょうどそのように、画題はおうおうにしてその中に入れ子のように、深いエピソードともいうべき精神的世界、言ってみれば大きな神話的世界や宗教観を、寓意の形で抱懐している。
 この寓意の端的な例として、若冲のたぶん壮年期の作と思われる水墨画に「仔犬に箒図」一幅がある。縦長の紙本の天に近い上部に賛があり、画面の三分の二くらいの右上から、斜めに左下へ、一本の箒が立てかけられ、画面の地からやや浮いた感じの地面と思しきところに、箒の黒い棕櫚の部分をかかえるように白い仔犬が蹲っている。蹲った仔犬の目が鋭く、また画面の三分の二を斜めに抉るように分割した、箒の黒と余白の白のモンドリアンのような対比が「現代的」でしゃれていると思うことのほかは、おそらく、古い物に嗜好を持たぬおおかたの現代人にはそれほどの感想がないのではないか。
 だが、じつは若冲は(おそらく菩提寺の)相国寺の臨済の世界や、後年世話になることになる黄檗の教えに深く親炙していた人だ。この墨画は「趙州狗子」、つまり仔犬に仏性が有るか無いか、という禅の公案に基づいた古くからの画題によるものなのだ。俵屋宗達も応挙も富岡鉄斎も、また当然のようではあるが仙豪`梵和尚そのほか無数の絵師が描いたこの画題の背後にある公案のエピソードとは、詳細にわたるのは避けるが、かいつまんで言うと、あるとき一僧が趙州という高悟の僧に訊ねた。(このかわいらしい)仔犬にも仏性があるのでしょうかと。趙州は即座に「無し」と答える。さてその意は? というもので、絵に描かれた仔犬も箒もすべて何らかの寓意を持たされていることは確かなところで、若冲の場合、白い仔犬の目が鋭く描かれているのも意味ありげである。
 現代の目から見て、しゃれてるわねの一言で感想を終わらせないとすれば、画面上部に四行にわたってしたためられた賛、たぶんそれは詩偈として書かれた黄檗の丹崖和尚(無染浄善)の作の、おそらくは若冲自身による写しと思われるものだが、その賛を無視するわけにはゆかない。私はまったくこの方面には暗いのだが、こんな文字が見えるような気がする。「趙州門外不看児/其佛棕櫚毛帚載/佛性不須曰有無/満(?)蓙三昧汪(?)是起」。最後の行ははなはだお寒い読字でまったく自信がないのだけれど、要するに、「わたくし趙州従?が属する僧門=世界内のほかで犬の仔を見ることはない、あんたの言う仏とはその箒の棕櫚の毛に載っているようなものだ、仏性はほんらい有無を言うものではない、ただ座禅する蓙に三昧は満ちて溢れる云々」といったような意であろうかとは想像できる。仔犬とは限らないが、存在者の中に仏性の有無を問うた瞬間に仏性は消えて無くなる、そういった、仏性というものの(本性ではなく)ありかたとしての常在を説いたものであろう。
 ちなみに宗達の「双犬図」にも、その没後に丹崖は賛を寄せているが(後賛というそうだ)、丹崖と親しかった若冲は当然丹崖を介し宗達の「双犬図」について、直接見るか、話を聞くかしたと思われる。宗達の犬は黒白で二匹である。そういえば、趙州狗子の画題の仔犬は鉄斎にしても仙高ノしても応挙にしても、すべて「双犬」だ。若冲の犬は一匹だが、図柄的にはたとえば宗達画における白犬の、もう片方の黒犬が黒い箒に変じていると考えると、少し寓意の隙間が空く。禅家において箒は重要な存在で、行脚の僧が寺に泊めてもらったお礼にその庭を掃いて出たり、庭掃除が大切な修行の法であったり、また庭を掃き去ったときに石が当たって火を発した瞬間、頓悟した僧の話など、なかなか侮れる道具ではない。また、同じ時代の蕪村の禅味のある水墨画に(蕪村は浄土宗の徒だが)、若冲のそれによく似た棕櫚の箒を描いたのがあって、その横に「一?一墨掃破俗塵」と一行、賛があるのを見る。
 それやこれやで鑑みるに、どうも若冲においても箒は俗塵を払う重要な法器として映っていたようで、「其佛棕櫚毛箒載」は、かなり痛烈な言語とみることができる。管見の及ぶかぎりでは「狗子仏性」の他の仔犬はすべてが愛くるしく描かれており、それが「無仏性」という法語のさわりともなっているはずだが、反して若冲の仔犬は身を屈め眼光鋭く、仏性の有無を「掃破」する棕櫚箒とともに、悩み多き暗愚凡小のわれわれに襲いかからんとするかのようなのだ。あるいは仔犬は眼光鋭く、却って仏性そのものかも知れないこの棕櫚毛の「其佛」を載せた箒を、狛犬のように守護しているもののようでもある。
 こういった解釈の反転と一種の鋭さは、彩色された絵になるとじつに華麗な文様として時空を読み替え、森羅を覆ってゆくことになる。イロニーとか反語的とか言わないが、何かそういった普通でないところ、浮世娑婆めいていないところに、昨今の若冲人気の秘密があるような気もする。ここで少しばかり若冲畢生の大作ともいうべき、「動植綵絵(どうしよくさいえ)」について考えてみる。
 宮内庁三の丸尚蔵館発行の図録『動植綵絵―若冲、描写の妙技』によれば、若冲ははじめ、狩野派系の絵師に絵の手ほどきを受けたようである。若冲が生前に自らつくり、大典が碑文を撰した墓銘碑「寿蔵碣銘(じゆぞうけつめい)」にいう、すなわち、そうしたまねびだけでは狩野派の囲繞を越えることはできない、そして狩野派の画法を捨て、当の狩野派も学んだ大元の「宋元画」を臨模すること千本に及んだ、しかるに宋元の中国画人たちは現実の動植を直に見て描くのに対し、自分はそれを臨模するだけであって、その動植物を物に即して直接に描いているわけではない、そこで村里に飼われているものとして馴染み深い鶏ならば、羽毛美しく、彩色に工夫を凝らすべきで(描画の対象として格好である)、鶏数十羽を自宅の庭に放して観察し写生すること数年、(さらに)その描くところ、草木、羽毛虫魚に及び、絵の神髄に達することができた云々――とある。
 動植綵絵は文字どおり、花、鳥、草木、皓月、日輪、流水、降雪、紅葉、虫や魚介に至るまで、動植物のみならず花鳥風月のあらゆる現象に触手を伸ばし絡めた、いわば万象を色彩と意匠で埋(うず)み尽くしたかのような「怪作」とでも言うしかない作品群である。ただし、森羅万象を感じさせるこの作品を、ただ斬新な色やデザインの装飾で覆われた、京友禅や京焼の絵付けなどにいまでも見る単なる工芸品のみごとさに類するもの、と捉えるだけでは片手落ちであろう。ほぼ宝暦六〜八年から明和三年頃にわたる、約八年から十年という思いのほかに短い制作期間を経て完成した、三十幅の絵の中心に据えられるべきは、じつは釈迦三尊像だったのである。つまり、ほんらいは動植綵絵は、若冲の帰依深い相国寺に寄進された(末弟の宗寂の追善の意もあるという)、同じく若冲筆の釈迦三尊像の荘厳画として制作されたものなのだ。図録に言う、「『動植綵絵』が単なる花鳥画でないことには、重要な意味がある」(4頁)。つまり、ここにも近代絵画とはいささか性格を異にした、画題というものにかかわる問題を残響のように聴くことができる。
 伊藤若冲筆、動植綵絵三十幅。いうまでもないことだが、絵の分類としては花鳥画に属する。若冲が臨模し学んだ宋元画とは(さらに明清画もそこに加わると思う)、主に院体の花鳥画を指すことは疑いない。かつて根津美術館で南宋絵画展が開催されたとき、院体画の典型のようなのを見たことがあるが、また大倉集古館で明清の宮廷花鳥画を見たときの印象もそうだが、その冷徹で凄まじいばかりの精妙巧緻な対象描写と、一見矛盾するようだがその典礼的な装飾性の共在は、「十百本」を臨模しただけに動植綵絵にもそのまま窺われて、私などは唸らされた。ただ、著しく異なる点はその寸法で、動植綵絵が大略一四二×七九センチの大きさで揃えられているのに対し、院体の花鳥画や明清の宮廷画は、縦横三〇センチをいくらも越えない意外な小ささであることだ。動植綵絵が「怪作」であるゆえんは、じつにその大きさの中に、院体画や明清画の密度を実現してしまったところにあると私は思う。
 ところで、対象描写の精密さと装飾性の共在ということについてだが、図録一番の「芍薬群蝶図」を例にとると、飛んでいる蝶の形態はまことに正確無比と感じられ、芍薬もかさなりあう花弁ひとひらひとひらの色彩の濃淡が質感にまで高められて、まず目で見た実景に限りなく近いように受け取られる。はずである。が、どこか眼の知覚とは違うぞともささやく声がする。羽を半ば閉じながら芍薬花の蜜を吸う姿はともかくとして、群蝶はこんな展翅ピンで広げられた標本みたいな姿で飛んでいるはずはないし、芍薬にしたって何か解剖とはいわないが、前後左右上下から徹底して観察された後に、いわば傷口をふさいで綜合された絵柄のように感じられる。けっして近代的な写実画や写真のようではない。現実の種類にもよるけれど、現実にはけっしてこんなふうに見えるものではないのだ。群蝶と芍薬、また芍薬でも花と茎と葉、葉どうし、つぼみと開いている花、それらのひとつひとつは精緻だが、ある決められた骨法ともいうべきものに則って組み合わされているために、写実性よりも装飾性、また「写実」が微妙にゆがんだところで滲出してくる幻想的な味わいが感じられると言える。ほんらい花鳥画とは、これも画題である四君子(蘭、竹、梅、菊)に神仙の面影を見る如く、聖なるものの写しという側面があるわけで、近代的あるいは西欧的な写実画とは一線を画するのだ。この絵を含む動植綵絵の典礼的な性格はこんなところにも起因していると考える。
 同じことは鶏を主題にした八幅の絵にもいえる。たとえば図録の十番「芙蓉双鶏図」を見ると、雄鶏が舞踏するような勢いで、下から上向きに首をひねって見上げる雌鶏に対して、両脚のあいだから股覗きみたいに雌に向かい、挨拶だか求愛のポーズだかをとっている。こんな不自然な格好を若冲は現実に見たのだろうか、という疑問には、やはり見たのだろうと私は答えざるをえない。ただその紙本への定着の仕方に誇張がある、というよりは、やはりここでも画題にともなって堆い時間の層を持つ、「骨法」に則っているのだろうと、考えたほうが実情に近そうだ。これが西欧的な、でもやはり「骨法」というしかない観点から見て、後進的だ、などとはいささかも思わないが。図録七番「大鶏雌雄図」、図録十四番「南天雄鶏図」、そして図録二十番「群鶏図」に至るまで、雄鶏の鶏冠や脚はいかに怪異な色と形と質感に満ちていようと、怖ろしいほど正確に描出されているはずであり、その羽毛の一本一本は明瞭な輪郭線でかたどる勾勒(こうろく)画法と見紛うばかりだが(ひとくちに没骨(もつこつ)画法と言ってしまうとなんだか身も蓋もない)、じつは色彩やその明度輝度の差異性のみで出現している、輪郭線とは明瞭に異なる線により、一種の刻薄を思わせる精緻さと輝きに満ちて描き分けられているのである。精密に過ぎてなんだか非現実的な感じさえするほどだ。さっき典礼的とか巧緻な写実とか言ったが、これら鶏たちの躍るような姿態を一言であらわせば、硬質透明で徹底的なイデーのもとにある、とも言うべきか。
 動植綵絵は、ほんらい釈迦三尊像を荘厳するためのものであるが、イデア的であるところがただちにそこ(仏)につながるのではない。イデアルに描かれた動植物や森羅万象の嬉遊が、むしろ万物を空とみる仏のたなごころで、空そのものとして歓ばれ尊ばれている、と、私ならばその「荘厳」の意味を理解する。三十幅はすべて花鳥画だから、人やけものは登場しない。図録八番「梅花皓月図」には鳥や虫さえ存在しない。ただ皓々とした月と、いちめんの夜の白梅花のむらがりだけがある。また図録二十五番「老松白鳳図」は現実には存在しない、まったくの想像上の鳥だが、図録九番の「老松孔雀図」、同十一番の「老松白鶏図」、同十二番の「老松鸚鵡図」と、同じ老松を背景にした、同系列の白い聖鳥の図を見てきた目には、深裂は存在しないと言っていい。図録二十三番の「池辺群虫図」における蝶以外の虫や、同二十四番「貝甲図」、同二十七・二十八番の「群魚図」などは模本があったとも思われない。「群魚図」や「貝甲図」など、その魚介の形や種類を考え、またそもそも若冲の「物に即して」描くという態度からいって、京の錦市場あたりで目睫に見たものと想像する余地はじゅうぶんある。家督は弟に譲ったとはいえ、「本業」は青物の大店の主人であった若冲らしいとは言えまいか。それにしても、描く対象に鯛や虎河豚、甘鯛にヤガラなどの高級食材を選ぶあたり、若冲はかなりの美食家であったのではないかという気がする。そういえば彼の晩年を世話し、看取ったであろう黄檗の門は、日本に普茶料理をもたらしたことでも有名で、売茶翁の煎茶といい、さらにはその出自といい、若冲はなぜかどこまでも口腹に関することと無縁ではない。
 宝暦十年(一七六〇)の冬至の日、大典と親しかった売茶翁に、若冲は「丹青活手妙神通」(丹青活手の妙、神に通ず)の一行書を贈られる。丹青とは赤い色と青い色、転じて絵や絵を描くこと。活手はその達人。黄檗の門の売茶翁に一行書を贈られるというのがどういうことであるのか、たんなるグリーティングカードに類するものなのかどうか、本当のところは現在ではもうよくわからなくなっている。冬至の日にそれを贈られる、というのも何か意味がありそうだ。総じてこの江戸期のハイヌーンのような日々を生きた人間と現代の人間と、宇宙乾坤とまでは言わないが、その時空の感覚認識が同質であると考えたとしたら、深く過つような気がする。
 火事で焼け出された晩年、高価な絵の具も思うようには購うことができなかった若冲だが、その代わり水墨画をよくしたようだ。なかで、寛政九年(一七九七)の作に「鶏図押絵貼屏風」六曲一双がある。そう、最後まで鶏なのだ。しかし、もはや動植綵絵の濃密で犀利な色彩や光輝はそこには存在しない。そこにあるのは一種の無窮動に似た鶏の動きそのものである。動植綵絵ではあまり前面に出ることのなかった、ものの運動、筆による濃淡、滲みも掠れもある墨痕が、おそらく色彩という一種の牢獄から解放されることによって、より自由に、闊達に、画面いっぱいを風のように縦横に擦過している。図録の解説子は、これを「抽象的な文字」と形容しているが、それならばこの「文字」は、コトバに付随する意味や概念を欠いている。鶏を描いているが、それは鶏である必要はかならずしもなく、何か意味を与えられたりすることもある形象、である必要すらない。なにか形象外のところで満ちたり引いたりするsomethingを、仮にこの世界の言語で語ってみたら、このような描線を曳きながら露頭し光って消えてゆく、という感じで、それが十二枚の古ぼけた紙本の奥に夢のように浮かんでいるのだ。ヒトの自由とは、こんなに凄みのあるものだったのか。この十二の尾羽の、跳ね上がり沈み込むような動きに見とれているうちに、邯鄲の黄粱(おおあわ)は煮えあがり、人生は盛衰し、斧の柄は朽ちるのだろう。
 これをしも、人間が枯れるというのか。時代の太陽はまだ中天のあたりにあって、晩年の若冲に色は必要なかった、というより、色はあってもなくてもよかったのだろうと思う。たんに購うお足がたりないというだけで、それならばと木石に羅漢でもせっせと彫っていたのに相違ない。禅門に深く帰依しているが食べることにも趣味のあった老人は、もしかしたら本気で、即身是仏をしゃれ込んでいたのかも知れない。



「飢餓陣営」33号(2008年3月)より。

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