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      Covers 0 (2009/02/12)



 外国の詩とか古い日本語の詩歌、ときには現代の日本語の詩歌。それらを、正確で誠実な翻訳というのでなく、ずいぶんと好き勝手に表現も意味も変えて書きかえながら、その詩の本質へと自分ひとり入り込んでいこうとする。そのためだけに日本語に移し替えてみようとする… こんな試みを本当に始める時期だな、そろそろ、と思っていた。少し前にバルバラの『ゲッティンゲン』をカヴァーしながら、こんな試みがなんと楽しいことかとわかったし、考えていた以上に大事なようだとも感じた。ただそれだけのこと。このCoversと題するシリーズを設ける理由。
 翻訳とは言わない。意訳という程度に収まる場合は多いと思うけれど、もっと大胆に、好き勝手に逸れて、ポップスでいうカヴァーヴァージョン程度までにアレンジしてしまうことも、たぶん、多々。ジャズのスタンダードなるものでは、思い切った歪ませ方が演奏者の腕の見せどころになるが、それにも近い。かと思えば、ときには、けっこう忠実っぽい翻訳をしてしまったり。
 ずいぶん詩歌を読んできて、作る真似事もしてきて、自分の表現言語とは違う言語のものを今の日本語に移し替える時には、なまじっかな翻訳を心がけてはいけないのだと悟った。学者先生たちにはわかるまいよ。思い切った結論。詩歌はつねに、学問や研究への逆噴射なのだ。ここまで確信するのには、ずいぶん時間がかかった。いまさら、理由をあれこれ言おうとは思わない。中原中也が、ランボーの「おお、季節よ、おお、城よ」を、「季節(とき)が流れる、城塞(おしろ)が見える」と訳したのを思い出しておけば十分だろうと思う。彼がやったのは、あきらかにカヴァー。共感、感動、学び、捻じ曲げ、変質などを同時に行なうのでなければ、詩歌を他の言語に移し替える意味なんてない。大事なのは、捻じ曲げと変質がなされなければならないということ。絶対に、だ。
 オリジナリティーなるものへのかなりの軽蔑が、こういう行為にはあるかもしれない。あるね。ある。たしかに。個性とか、独自さだとか、新しさだとか、なんと下らない!…と思っている。他人が書いたものは自分のもの、自分が書いたものは他人のもの。そうして、いったん書かれたものは、無限に、無制限に書き直されてかまわない。誰でも詩歌に接する人は、本当はこう思っている。そうでなければ、ニセモノだね、そいつは。
 もうニセモノの考えにつき合うのはうんざり。個性とか、オリジナリティーなんてないんだ、ホントに。こういうところから、歩き直す。ここが振り出し。振り出しに戻る。センチメンタルジャーニーって呼んでもいいぜ。




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