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Moonshine 10


村上春樹とエルサレム賞


 2月15日から20日にかけて開催されるエルサレム国際ブックフェアで、村上春樹にエルサレム賞が授与されることになっている。「社会における個人の自由」への貢献を讃える賞で、エルサレム市長から手渡される。パレスチナ情勢に敏感な人たちからは、すでに少なからぬ見解が表明されているし、受賞拒否を望む声も多く聞かれる。
 国際共同管理地域であったはずのエルサレムは、第一次中東戦争での分割を経て、第三次中東戦争での〈拡大エルサレム市〉への西エルサレム併合により、一方的に首都宣言を行うという経緯があったが、これは現在でも国際的には正式に認められていない。分離壁や重い徴税によるパレスチナ人差別はますます酷くなり、現市長ニール・バカラットは、歴代市長たちと同じく、国際法違反のエルサレム首都化を強硬に推進している。そういう市長の手から授与される賞に対し、よりにもよって昨年12月来のガザ虐殺の後に、村上春樹がどのような対応をするのか、これは注目されて当然だろうし、彼の作品を好む人々からはぜひとも受賞拒否をという期待が寄せられるのも理解できる。

 戸惑いや落胆や批判、あるいは「政治と文学は別物だ」といったお決まりの決着のつけ方。それらは村上春樹ファンに任せておきたい。そこそこ楽しんだ作品もなかったわけではないが、八十年代以降の日本社会の全方位的読解力低下と政治意識の陥没、社会意識や国際政治や法意識における幼児性露呈成人たちのあっけらかんとした居直りを象徴する小説商品としての「村上春樹」独り勝ち現象(村上春樹本人がそれを象徴していた、と言いたいのではない。村上春樹だけに飛びつくような人々の大量発生のことを言いたいのだ)に強烈な疑義を持ち続けてきた人間としては、一娯楽作家としての彼をわざわざ批判するまでもないとはいえ、古今東西の文学者たちの中で、さほど取り立てて彼を称揚するほどのこともないと思っているので、今回の事態では、イスラエルの見事な戦略にとりあえずは素直に感心しておきたいと思うばかりだ。
 読解の楽でない文学作品が敬遠される時代にあって、読解忍耐力をあまり多くは持ちあわせていない読者をとり込む作品をも生産した作家、しかも、すでに作家人生の最盛期を過ぎて、正直のところ時代遅れになっており、いまやいろいろな賞で栄光を確定しておいてもらいたいとの出版社側からの要求を受けてそれなりに苦労しつつ、しかし自らもノーベル賞を手にしたくて汲々としてさえいるらしいと仄聞される作家に、十二分に身辺調査を行った上で、あえてエルサレム賞を贈っておくという高度な政治手法。
 イスラエルの狙いは、他にも呆然とするほどの量の優れた小説が世界にはあるというのに、ふと気付くとうっかり村上春樹ばかりを愛読してしまっている人々を、巧妙に親イスラエルの水脈に導こうというものであるかに見える。もちろん、あのような軍事行動を平然と推進する国家内で、政治の大勢とはまったくかけ離れた文学的趣向を抱いて悶々としている没政治的イスラエル人たちがいないはずもなかろうし、多くの中国人ファンを獲得している村上作品がイスラエル人ファンを獲得しないはずもない。村上の作品に登場する人物は、オナニーやさほど快楽的とも見えない拙劣な性交場面でなにかというと勢いよく蛇口を開いたかのように射精することが多過ぎるが、まァそのような性生活に寂しく共鳴してしまうような孤独者たちだって、イスラエルにはやはり多量にいるに違いない。親パレスチナの人々やまっとうにイスラエルを非難するヒューマニストたちは、こうした文学賞問題についても、やはり政治中心の受け止め方をして言説を組み立てている場合が多いようだが、なるほど文学は世界観や人間の倫理的認識の一最前線であるとはいえ、所詮は娯楽読物に過ぎないという面もつねにあるのだから、おそらくイスラエル人たちも村上的射精には大いに共感したのだと慮って、ニタニタと受賞を見守っておくという遇し方もあるはずである。タレイランならそうしただろう。この世で起こることなど、すべてその程度に遇すべきことなのである。クリシュナムルティを思い出しておいてもよい。社会はなにひとつ重要なことはもたらさない。人間社会から魂が学ぶべきことなどなにもない、と。覚者ともなると、かほどまでに取りつく島もない。

   2001年にスーザン・ソンダクが同じくエルサレム賞を受賞した際には、彼女は受賞式のスピーチで堂々と、パレスチナ人に対するイスラエルの政策と軍事行動を厳しく断罪した。受賞しながら、いや、受賞することで、エルサレムにおいて正々堂々とイスラエル批判を行いおおせるというのは、やはり世界的な批評家としての見事な見栄であったというべきだろう。日本によく見られるような、ボス的作家たちや出版社へのサービスばかりに目端の利く商売人批評家たちとは違う。ソンダクの『この時代に想うテロへの眼差し』(木幡和枝訳、NTT出版 2002年)から、この時のスピーチの一部を引いておこう。
 「(…)集団的懲罰の根拠としての集団責任という原則は、軍事的にも倫理的にも、決して正当化しえない、と私は信じている。何を指しているかと言えば、一般市民への均衡を欠いた火力兵器攻撃、彼らの家の解体、彼らの果樹園や農地の破壊、彼らの生活手段と雇用、就学、医療、近隣市街・居住区との自由な往来の権利の剥奪である。(…)こうしたことが、敵対的な軍事攻撃に対する罰として行われている。なかには、敵対的軍事行動の現場とは隔たった地域の一般市民に対して、こうしたことが行われているケースもある。
 私は以下のことも信じている。自治区でのイスラエル人の居住地区建設が停止され、次いで―なるべく早期に―すでに作られた居住区の撤去と、それらを防衛すべく集中配備されている軍隊の撤退が行われるまで、この地に平和は実現しない、と」。
 女性政治学者ハンナ・アーレントの口ぶりを思い出させるような、的確、簡潔な辛口の言明である。近代史の流れを受けての社会と個人についての国際政治学的認識、民主主義と自由についての政治思想および哲学的認識、言説構築と批評の適切な展開への意識などをそれなりに時間をかけて培ってきていなければ、自信を持っては発言できないようなスピーチといえる。村上春樹に問われているのは、こうしたソンダクのスピーチを否応なく受ける立場に立たされて、さてどのように語るのかということだ。  なにをどのように語ってもよい、と、イスラエル批判ばかりに人生を傾けているわけではない者として、また村上春樹に、とりたてて悪意も反感も持たないながら、かといってさほどの特権的な位置を認めてもいない一文芸作品読者として、思う。日本人によって南京大虐殺が行われていた同じ時間に、日本国内で他ならぬ日本人によって、人類でも最良の美意識や人間性が展開されている場合もあったのをわれわれはよく知っている。イスラエル国内でイスラエル人たちによって、そのように展開されているかもしれない希少な活動、醸成されつつある貴重な意識、静かに咲いている美にむかって、受賞式に臨む村上春樹は話しかけてもよいはずだろう。ごくごく形式的な謝辞を述べるに留めて、寄せられるであろう多くの落胆や批判を予想しながら、エルサレムの青空にまなざしを放ってもよい。

   敵はなにか。敵とはだれか。微細なニュアンスを感じとらぬ意識たち、何についてもいかようにも捉えられ認識でき解釈できるという精神の大前提を故意に無視して、安手の商品のパッケージデザインのような粗い色合いや形での世界認識を迫ってくる者たちである。
 どうしてつねに、極度に政治的であらねばならないか。粗い政治位置に立つのを強いてくるエセ政治の罠を、毎瞬毎瞬、すり抜け続けなければならないからである。

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