[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]


ARCH 21

                   駿河昌樹詩葉・2000年12月



代田日記2000.3.1〜8.31 ソノ五




○八月十日木曜日

 所用で、鎌倉由比ガ浜の住宅地に赴く。
 北鎌倉は好きだが、わたくしの鎌倉嫌いは常軌を逸している。以前、散策に鎌倉を訪れて、ちまちました街並み、矮小な寺をありがたがっているだけの不快な精神構造が罷り通っているのをみて、あまりのつまらなさに嫌気がさし、夕刻、そのまま新横浜にむかい、大阪への新幹線に乗ったことがある。
 大阪にあって、鎌倉にないもの。趣味のカオス、生活のごった煮、あるいは近世の残り香だろうか。


○八月十一日金曜日

 炎天下、町田の薬師池公園と隣接のリス園に遊ぶ。薬師池公園は、歴史のある見事な景観を持つ、広大で、飽きのこない庭園。これほど立派な庭園が町田に、と驚く。草木の選択、配列が絶妙で、四季を通じてすばらしい風景をなすものと想像される。清流がところどころに小滝をなし、てのひらより大きなサワガニが小流を上っていくのを見た。リス園には、五〇〇匹のタイワンリスの放し飼い場があり、駆けまわるさま、人間のように眠りこけるさま、からだに飛び移って餌をねだるさま、どれも楽しく、去りがたかった。町田のこの付近の施設では、障害者が運営にたずさわっており、その点の好ましさも感じる。


○八月十二日土曜日

 エドワード・ホッパー展(渋谷、Bunnkamura ザ・ミューズィアム)を見る。海近い土地なら、ニュー・イングランド。そこになら、住むのを夢見てもいい。鎌倉とは比較にならない。
 たまには買い物内容を記録するのもいいだろう。渋谷、タワーレコーズで。
 書籍。ロルフ・ギュンター・レンナー『エドワード・ホッパー 現実の変容』(タッシェン、1992)、Wieland Schmied : Edward Hopper Portraits of America, Prestel, 1995、John Fante : Ask the dust, Black Sparrow Press, Santa Rosa, 1980、John Fante : The big hunger stories 1932-1959, Black Sparrow Press, Santa Rosa, 2000、The poetry of Robert Frost, edited by Edward Connery Lathem, 〈An owl book〉, Henry Holt and Company, New York, 1979, Jay Parini : Robert Frost a life, 〈An owl book〉, Henry Holt and Company, New York, 1999、Homage to Robert Frost(by Joseph Brodsky, Seamus Heaney, Derek Walcott), The Noonday Press Farrar straus Giroux, New York, 1997, J.krisnamurti : krisnamurti Reflections on the self, edited by Raymond Martin, Open Court, Chicago and La Salle, Illinois, 1997。
 CD。John Cage : The Seasons(by Margaret Leng Tan:prepared piano&toy piano, Dennis Russell Davies:conductor, American Composers Orchestra), ECM New Series 1696, 2000、John Cage : In a landscape(by Stephen Drury, keyboards), Atalyst, BMG,1994、Toru Takemitu : I hear the water dreaming(by Andrew Davis, BBC Symphony Orchestra), 2000、Toru Takemitu : Quotation of Dream(by Oliver Knussen, London Sinfonietta), 1998、The Copland Collection(by Aaron Copland), CBS,1990、Vivaldi : Il cimento dell'armonia e dell'inventione op.8(by Il Giardino Armonico), 1996、Brahms : Symphony No.1(by Christoph von Dohnanyi), TELDEC 1987。
 さらに、長いこと、部分的にしか聞いたことのなかったアルトーの有名なラジオ番組のCDを購入することができた。Antonin Artaud : pour en finir avec le jugement de dieu, Sub rosa>aural documents SR92, Austria。
 きょうの最大の収穫は、ロバート・フロストの詩との決定的な出会いができたことだった。以前から知ってはいたが、読むのを控え続けていたので。


○八月十三日日曜日

 この国の女たちは、どうしてすぐさま、あのようにヒステリックな話し方になってしまうのだろうか。とりわけ、地上波のテレビの出演者、取材者たち。テレビを見る気になれないのは、これも理由のうち。


○八月十六日水曜日

 成城付近散策。喜多見不動尊から野川沿いに歩き、次大夫掘公園、民家園、六郷用水跡地、永安寺、岡本公園民家園、岡本八幡神社と辿る。その後、さらに砧公園、用賀駅まで歩く。ゆっくりと方々を見てまわったため、八時間ほど歩き続けた。長く歩くのはいつものことだが、八時間というのはひさしぶり。
 それにしても、しっかりと守られた清流のなかを鯉が多く泳ぎ、サギや鴨の遊ぶ野川の素朴な美しさ、ちょうど稲の花の盛りの、江戸後期の農村風景を再現した次大夫掘公園、民家園の見事さには感心した。心底からくつろいで楽しめるという点で、たいていの観光地を凌駕する場所といえるだろう。近所にこのような場所があるという幸せ。多くのひとがここを知らないというのも、また幸せ。


○八月二十日日曜日

 ある店の常連になったり、ならなかったり。それを決めるのは、店員の対応であるといえる。若い女子アルバイト店員の不快。たとえば、ダイエー系(ダイエーというのは、これまで日本に現れたことがなかったほどの、最低のスーパーである。惣菜を除いて、あそこの商品の並べ方には情がない。商品が死んでいる。ことに、むごたらしいまで粗製品のならぶ衣類売り場の悲惨を見よ。)の《下北沢グルメシティー》では、レジにはほとんど茶髪の若い女子が立つ。近ごろは、どこでも客の顔を見ないレジ係が多いが、ここでは、客が途絶えたとき、これらの女子労働者たちはおしゃべりに余念がない。自給千円にもならないアルバイトなのだと思えば、これもひとつの抵抗かとは思うが、疑うのは幹部の教育方針だ。これに比べて、同じような薄給でありながら、三軒茶屋アムス西友などでは、店員は甲斐甲斐しく働いている。


○八月二十六日土曜日

 世間には、現実家としての矜持を持つ多くの蒙昧のひとびとがあって、道楽者たちや文弱の徒たちを侮るのをつねとしている。しかし、真の現実家ならば、一匹の精虫から一握りの骨灰への移行としてのみ人生を捉えていて然るべきであり、それ以上の意義や幻想をこの物理的時間の継続に込めるべきではなかろう。人生を価値あるなにものかとみなすには、よほどの夢想家であるか、思慮の欠けた感傷家である必要がある。いずれにせよ、臆病者であるにはちがいない。
 細胞集合体が誕生して死滅するに至る一過程として人生を捉えるならば、合理的な生のあり方は、広義の快楽探求を徹底するか、社会を完全な下克上の場としてみなして権威伝統の蹂躪を尽くして横死するか、いずれも幻と見て、あたかも他人事として、そこそこにみずからの心身の衰弱を経ていくか、この三通りしかない。現実家とは、このいずれかのあり方を意識的に採用しつつ、物理的時間の継続を蕩尽していくひとを言うはずである。
 したがって、即席の結論。道楽者や文弱の徒にこそ、真の現実家は多い。世の現実家諸氏は、よくよく我が身の不徹底を省みて、道楽者、文弱の徒に入門すべし。


○八月三十一日木曜日

 この夏は記念すべき夏であった。ひさしぶりの日本の夏であり、これまでになく貧乏で、未来の展望を喪失し、日々、自死の方法を考え、贋の友人知人はすべて霧消し、海で泳がず、太子堂から三軒茶屋を炎天下から日暮れまでたびたび徘徊し、毎日一二冊は本を読み、人生の越し方を暗くしつこくうじうじと、つくづくと思い返し、まるで空になった器のような自分に新たになにも注ぎ込まずに汗ばかりをかき、とにかく連日暑く、時間の流れも停滞もすばらしかった。いちいち記さなかったが、高幡不動や絹の道を含む多摩丘陵あたりの散策や、目黒不動あたり、深大寺あたりへの散策は、来世までの思い出となることだろう。日本滞在は、あと、何年続くことか。というより、そもそも、地上滞在は、また、地球体験(ル・クレジオ)はいつまで続くだろう。わたくしはすでに死んでおり、死に切っており、もはやなにひとつ新しいものは起らず、かといって、古いものの繰り返しを厭き厭きしながら生きていくわけでもないと分かっている。というのも、生きてなどいないのであり、生きはじめていなかったのであり、生まれてもおらず、それは今後も変わることはないだろう。だから「死はない」(タルコフスキー)のであり、「世界には未だかって何ひとつ決定的なことは起ってない。世界についての、また、世界の最後の言葉はまだ語られていないし、世界は開かれたままであり、自由であり、いっさいはこれからであり、永遠にこれからだろう」(バフチン)。ははははは。あいかわらずの引用趣味じゃないか、駿河昌樹のガキ野郎め! おまえみたいなヤツがくたばれば世界は美しい夕焼けを持つ。これからはさらに錯乱せよ錯乱するな。「出発だ!」/「出発はやめだ!」(ともにランボー)。やはり最後はマクベス。南北でもいいが、とりあえずは。

「降参などするものか。マルカムの小僧ッ子の足下に額をすりつけ、下郎どもの悪口雑言にさいなまれてたまるものか。バーナムの森がダンシネインに動いてこようと、きさまが女から生まれた男でなかろうと、おれは最後まで戦うぞ。さあ、盾も棄てた。かかってこい、マクダフ。最後に『参った』といった奴が地獄に落ちるんだ」。


       終







[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]