[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]


ARCH 20

                   駿河昌樹詩葉・2000年12月



代田日記2000.3.1〜8.31 ソノ四




○七月三十日日曜日

 日本製品の品質は、個々の熟練労働者・作業者のうちに蓄積された、特定の作業に特化した業務知識(より具体的には、経験、勘、それらにもとづく決断、度胸など)によって維持されてきた。広義の職人性といってもよい。容易には解雇されたりしないという保証が、こうした業務知識の蓄積を支えてきた。たしかに存在していたといえる日本的個性主義を支えてきたのも、こうした風土だった。日本的個性は、その人間の仕事を発現の場としていた。外貌や性格などは、個性の舞台とは認めていなかったのである。
 容易な解雇の可能性、収入・福利厚生の不平等是正の意思の欠如があからさまなものになれば、すみやかに、根底からすべての日本型産業の品質維持は崩壊しうる。


○七月三十一日月曜日

 桐田真輔氏より送られた『断簡風信』に、ブコウスキーの日記についての読書メモあり。楽しい引用ひとつ。「朝の六時にしゃんとしてものを書ける者など誰であれユーモアのセンスを持ち合わせているわけがない。そういう人間は何かを打ちまかしたいと思っているのだ」。
 もちろん、ブコウスキーは間違っている。この作家は、死ぬまで、たゞの馬鹿だった。もちろん褒め言葉。書く人間が馬鹿でなかったら、宇宙は運行に支障を来す。
 朝の六時に、しゃんとしてものを書いているような人間なら、なにかを打ち負かしたいなどという思いは、とうに解消している。朝の六時という時間は微妙なところなのだ。夜通し起きて書いていた人間なら、六時には真剣に書くのを、そろそろやめようという頃だし、はやく起き出て書く人間なら、まだ調子が出ていない頃だ。
 六時にしゃんとして書いているような人間には、大きなくつろぎが心にある。人生全体を、彼はすでに、よそごととして、しかし、もちろん身の退きようもなく、眺めている。書くということについても同様。書いたところで、どうなるものでもなく、なにもかわらないと知り尽くして、六時頃なんぞに書いているはず。書くことが、青二才の文芸理論家たちのカリカリした批評を貫く、形而上学ふうや神秘主義ふうの有り難みを持つものでなどないことなど、とうにわかり切っているのだ。
 朝の六時にしゃんとして書けるようになるまでに、わたくしもそれなりの時間を費やしたものだった。いま、わたくしは、朝の六時にしか書かない。これが、わたくしが疎まれ、嫌われ、蔑まれ、無視され続ける理由。
 しかしながら、「わたくしは思う。五十年後にだれか、文学の物好きがわたくしの書いた断片を世に出すということもあるだろう、と。きっと、気どりのなさとして、真実として、それらは気に入られることだろう、と」(スタンダール)。


  ○八月一日火曜日

 東京という都市の中心はじつは富士山であり、この山をランドマークとして、偏心的に関東全域に延長拡大されていく性質を、この都市がもともと含み持っているという論。これは当たっていると感じる。陣内秀信『東京の空間人類学』。
 たしかに、きわめて多くの東京人に共通する感情のあるレベルに、霊山的な性質を持つ富士山が存在している。東京人は、地理的な東京の中心を皇居周辺とみなしたり、生活の中心をいくつかの繁華な街に見出したりするだろうが、一回限りの自分自身の人生に関わるトポスとしての東京の、象徴的な中心をこころに把握しようとする時などには、やはり富士山を望み見るのではないか。


○八月二日水曜日

 木火土金水。これらの元素を巧みに按配しなければ、都市の風景からは魅力が失われ、殺伐としたこころの砂漠が広がる。こころは、比喩でなしに、五大元素によって形成・維持されている。川、運河、池を殺した東京の都市づくりの失敗。
 火は、夏ならば案外容易に配することができる。花火。あれは、なによりもまず、火の回復である。しかも、空に打ち上げる花火は、本性上、万人のものでありうる。閉鎖空間の見世物ではない。
 また、墓地。墓地を大事に保たない都市の滅びは、はやいだろう。


○八月四日金曜日

 肉とチンゲンサイ、ピーマン、茄子などを使った中華風炒めは、大きなフライパンを用いれば容易だが、油量と味の濃さの加減にはなかなかの熟練を要する。いずれにせよ、普通の中華屋よりはうまくできる。


○八月五日土曜日

 経済学と占いとでは、どちらのほうが存在価値があるだろうか。毎年、年末から年明けには、政府・民間を含めて、最新の経済理論、統計数学、最高のコンピューターと斯界の優秀な人材によって経済予測が出される。五兆円産業といわれる。が、予測的中率は、政府機関(経済企画庁)でも一割四分程度だという。これは、経済知識の皆無なひとびとによるナイーブ予測にもはるかに劣る。
 予測がこれほどにも外れる以上、実証科学としても実用科学としても存在価値はない。文学や芸術と異なり、ある種のものの考え方・見方を提示するというだけでは、経済学の場合、済まないのだ。このようなことが明らかになったのが、経済学にとっての戦後の五十五年だった。経済学士たちにとってのバブル崩壊とそれに続く不況は、帝国陸軍・海軍にとっての敗戦と同様の意味を持つはずであるのに、奇妙なことには、責任論はまったく取り沙汰されていない。今後、経済学には、文学部哲学科ないしは社会学科内部の「経済論」、あるいは、教養学科の自由選択科目のひとつとでもいった地位が妥当ではないか。少なくとも、他学部の諸氏は、このような邪教の徒たちが、同じような学士・修士・博士の制度を持って、のうのうと生き延びていることに不快の念を持つはずである。


○八月六日日曜日

 毎日の料理に使う食材などを買っていると、死ぬまで、こんなふうに、ここらの店で買い続けていくのだろうかと思うことがある。若い頃ならこんな思いは苦しかった。いまでは、人生などそんなものだという思いが立つ。
 基本的な食材の、良いものをできるだけ安く買うために、時間があれば、真夏の暑い夕方、何軒もの店をまわる。まず、急ぎ足でその日の品揃えと値段と品質を見てまわってから、人参はどこで、大根はどこで、というふうに決めて、買いにかかる。それぞれの店に品の得手不得手がたしかにあるが、それでも毎日、どの店でも、値段も品質も変動する。野菜などでは、大型スーパーが、品物の品質という点では、たしかに毎日、いちばん平均した揃え方をしているが、数十円から百円ほどはつねに高い。
 本日の野菜の買い物。新鮮で、捨てる葉のまったくないレタス百円、人参六本六十八円、エノキ三十八円、長芋(三十センチほどのもの)百三十一円、大根九十円。大き目のミニトマト二十四個ほどで二百四十円。水菜(京野菜。おおぶりの二束で)百円。表面に模様のムラがあって見栄えは悪いが、大きなカボチャ、丸ごとで九十八円。
 先月ならば、きょうのと同量の人参を三十円で買ったことがある。あれ以上の安値は戻らないらしい。大根も、先週は三十円のものを見つけたので、それと比べれば、きょうの買い物は六十円の損。エノキは、きょうはどの店でも安かったが、スーパーでは同量のものが百円以上していた。トマトについては、きょうはどの店も良くない。しかたなくミニトマトを買ったが、味も質もよかった。だが、同量同品質のものが百五十円ほどで買える日もある。果物では、夏に比較的安いのはバナナである。すぐに傷むので、夕方も遅くなると、店によってはさらに値を下げる。七本のものをきょうは百円で買ったが、もっと遅く行けばよかったかもしれない。嗜好品はいっさい買わないので、季節ものの西瓜にもメロンにも見向きもしないが、実質的なビタミンを摂取するためのオレンジは買わざるをえない。サンキストの八個袋詰めを三百円で買う。防腐剤・防カビ剤使用のもので、できれば避けたいが、柑橘類の少ない夏季には仕方がない。


  ○八月七日月曜日

 昨年以来、貧乏がどういうことであるかに直面し続けているが、最近になって、あらゆる面まで徹底して「貧」の意識が行き渡ってきていると感じる。これは、体験してみなければわからないひとつの意識状態であり、今後、セリーヌや山之口獏の再読に好都合かもしれない。貧乏などわかっている、と長いこと思ってきたが、そうではなかったということが実感としてわかった、といえる。わかる、というのは、これほど想像力の通用しない領域なのだ。実体験なき想像力の危険。それは、ようするに、ただの無にすぎない。実体験が伴う想像力ならば、構想力、総合判断力として機能しうる。参考、ジョージ・マクドナルド『リリス』。「きみだって毎日毎晩、とても理解できない現象を体験しているんだからね。きみはそれでも『理解している』と言うだろうけれど、その理解なるものは『慣れ』のことでしかないのさ」。
 それにしても、貧乏になってはじめて実感されるのは、これまで必要としてきたものに、いかにムダが多かったか、ということである。起きてから寝に就くまでの動作、使用物品、買うべきもの、気に留めるべき思念、それらのかなりのものが省略可能であると気づく。
 現代で〈カルチャー〉や〈アート〉と呼ばれているほとんどのものは無駄事であり、小金があればそれらを買ったり見に行ったり聴きに行ったりもしてしまうが、現実に貧乏ともなれば、ぱったりとそれらとの付きあいを止めざるをえなくなる。
 だが、そうなってみてはっきり気づくのは、皮肉なことには、日々の心持ちが、現実問題として、豊かになるということだ。ひとつの対象に思いをかける度合いが、ものに溢れたり追われたりしている時よりも、はるかに深くなる。この深さが、人間を浄化する。その浄化の感覚が、幸福感に繋がる。今晩も明日の晩もコンサートに、パーティーに、という生活では、こうした心理的な果実は得られない。


○八月八日火曜日

 北沢タウンホールで、イザドラ・ダンカン舞踊四代目継承者・メアリー佐野の『ダンカン・ダンス』を観る。踊り手たちは、意識を体外の様々な空間に集中させ、それを軸にしたり、それを追うようにしたり、また追われるようにしたりして踊る。体外に存在する想定された機軸点の絶えざる移動にあわせて、身体が瞬時に最良の関係構築作業を行っていく過程が、メアリー佐野のダンスである。人間が妖精でありうるということを目の当たりにみたと言える。誇張でなしに、自然な陶酔に導かれていた。


○八月九日水曜日

 ヨーロッパにUNITEDというボランティア団体があり、国家主義・人種差別主義・ファシズムに抵抗し、移住民や難民・亡命者を助ける活動をしている。そこで出版している難民・亡命者死亡リスト《List of 2005 Documented Refugee Deaths through Fortress Eupope》には、一九九三年から二千年までの二千名余りに及ぶ死者についての報告が出ている。名前、出身国、死亡日時と場所、団体の知り得た限りでの死亡状況などが簡潔に報告されているのだが、ヨーロッパ文化に関心を持つ者にとって興味深いのは、これらが紛争や内乱の続く地域での死者ではなく、あくまでヨーロッパ国内やその沿岸での死者たち、Fortress Europe、ヨーロッパ文化圏という名の要塞の濠(ほり)で、侵入を阻止されて殺された非武装の人々の記録であるという点である。
 多くの場合、やはり、抑圧からの避難やよりよい生活条件の追求などを理由としてヨーロッパへの侵入を図っているようだが、現代の奴隷商人ともいえる不法越境案内人たちや悪質な雇用主たちに騙されつつ行われるそうした行為は、もちろん不法である。不法侵入者に対しては、探索や発見、逮捕、拘留の現場で、じつに非情であるという実例を、海外のニュースではよく知らされるが、ヨーロッパでさえもそうなのだということには、われわれはあまり気づかない。
 密航中の船から海に捨てられて死体としてヨーロッパに上陸した者、拘置所内での理由不明の死、逮捕時の暴行による死、上陸目前の船の沈没による死、警察船に追突されての沈没、強制退去中の窒息死、猿ぐつわによる窒息死などをひとつひとつ見ていると、排除や差別をシステムの基盤に据える他ない文化や社会というものの恐ろしさ、それなしにはわれわれの存在もアイデンティティもありえないという絶望が心に来る。ホームページは以下の通り。http://w.w.w.united.non-profit.nl/







[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]