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ドクター・テラサキの短期主体意識研究



脳をやわらかく保つために寺崎医師は非医学的このうえない方法を採っておられまして、それがなんとアタマをたえず水に浸してふやかすという方法なのであります。起きて活動中はなかなか思うようにふやかせないというので、なんといっても寝る時がだいじなわけであります。大きな盥に水と特殊な物質が入っておる。それにアタマを浸して眠るんだそうでありますが、先生、それはご苦労なことでござりますが、うまくいくんでございましょうか?と聞きましたところ、なに、そこは長年の慣れ、いまでは熟睡しながらまんべんなくアタマのそこかしこの皮フが濡れふやけるように、自然に首が微動するのじゃよ。おかげでこれじゃ、これ、と医師が大きな手でぺたぺたと叩くアタマを見ると、脳がそのまま表に露呈したようなみごとな大ぶりの皺。とうの昔に髪などという余計物の失せた頭皮が、みごと、たらたらとふやけて歪み、しかもみずみずしいことといったら、巨大な水棲動物の健康な腸を裏返したようなぐあいで、思わずのってりと頬擦りしてみたくなる様子。先生、すばらしいですね、本当におみごとなのってり加減でございます、と洩らすと、いやなに、これは表層、表層、こんなところでのってりと満足されても困るんじゃから。だいじなのは中身じゃからの、脳のほう、それも脳の物質的形状ではなくして、その働きのほうなわけで、そっちがやわらかくなってくれんことには、いくら頭皮がのってりしてもお話にならんからなあ。いよいよ先生がこうして、やわらか脳の核心に入っていこうとする時、いや、ちょっとお待ちいただこうかの、とお手洗いに行かれたのでひとり残って、診察室としては巨大といっていい黄茶けた物置のようなほの暗い部屋、あらためて見まわしてみると、むこうのほうに本来は患者用の簡易ベッドがあり、ああ、先生はこんなベッドにみずから寝ることにしておられて、と長年のご苦労が偲ばれ、寝乱れたままにされている薄い掛け布団やシーツのむこうの床に、なぁるほど、大きな盥がいくつか置かれておりまして、ひとつにはぬるぬると澱む水が半ばまで入っており、これがドクター・テラサキの秘密の核心!……、と心の絶句。しかし、それより深く深く驚愕させられるようでしたのは、乱れたシーツの上に置かれている大型動物用らしいおまるで、今ではむしろペット用トイレといったほうが通りはいいかもしれませぬが、ピンクのプラスチック製のそれがベッドの上に鎮座ましましておりまして、中には特製紙玉がつぶつぶと敷き詰められていて、あらたな排泄にむけて準備完了という風情。先生は、はて、便意を催された時はこれでお済ましになられまでして、時間を節約なされ、寸刻を惜しんでアタマふやかしに勤しまれているのか、と思いつつも、いや待て、いまし方、先生はお手洗いに行かれたではないか、こんなものは必要ないはずなのにと気づき、そうだ、先生がお戻りになられたら、この謎をいちばんにお尋ねすることにしようと決めて、敷き詰められている特製紙玉つぶつぶを見つめておるうちに、なんとも堪えきれない便意が催してまいりまして、それも、どうしてもこのおまるでしてしまいたい、せねばならぬ、と、ついに跨ってしまったところで、するっと首に廻されるなめらかな皮紐。あっ、と思うまもなく、まったく、動物は人と暮らすと自分まで人だと思いこんで、コトバまでしやべくりちらすヤツがおるからのう、と背後から先生。お前みたいな種は、短期記憶に加えて、短期主体意識というヤツで、五分から十分ほど自分が人間だと思いこんだりするものだから、わざと人間サマを相手にしてるようなフリをしてみると、ほんとに図に乗ってくるから面白いねぇ。まぁ、自分をなんだと思いこんでも、せいぜいが十分ぐらいしか続かない短期主体性だけども、それでも放っておくと、ふらふら歩きまわるから、しばらく此処にしずかにしてなさい、私は研究のまとめで今夜は忙しいからのう。歩きまわられて、ナイフでも見つめた日にゃ、今度は自分をナイフだと思いこんで、それで追いかけられても、またうるさいし、ナ。






「ぽ」174 2007年3月

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