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『週刊朝日』の2007年3月30日号で見たドリームボックス
        (社会的テーマ性回復系だらだら書き詩の試み)




忙しすぎる生活なので
ぼくがペットを飼うのなんて考えられない
ネコは大好きだけれど
じぶんの日常をカバーするのさえ分刻みだから
動物の相手なんてちゃんとしてやれない
だからノラ猫を見つけると
たちどまって見ていたりする
撫でていたりする

大きな庭や出入り自由の空き地もないのに
いまの東京でペットを飼うのは酷な気がする
動物が好きな人こそ
動物を飼わないかもしれない
首輪や紐でつないだのを見るたび
うんざりどころか
心底おちこんでしまう人たち
狭いところに馴染むタチのネコなんかは
家のなかで飼っても
かれらの精神を歪めないですむかもな
とは思うけれど
ほんとうにそうなのかどうか
わからない
完璧をめざしたら
それはそれで間違うだろうから
わざとおおざっぱに
考えてはいるのだけれども
どうなんだか

環境省によると
犬だけでも年間に16万頭が
殺処分されているそうで
ほとんどが捨てられた飼い犬だという
雑誌でもテレビでも
動物管理センターの処分装置や
収容されて死を待つ犬たちの姿が
少しずつ報道されるようになってきた
ドリームボックスという装置で
動物たちは殺されていく
炭酸ガス注入で殺すらしいけれど
新型ならば数分で死に
旧型ならば10分ほどかかるという
10分かかるということは
10分もがき苦しむということ
そんな死が年に16万頭
それも犬だけの数

週刊朝日の3月30日号はよかった*
ドリームボックスで殺処分された直後の
犬たちの姿の写真が大きく載せられていて
週刊朝日編集部も
7年前からこの問題を追っている
写真家・大石成通氏も
ずいぶんと本気になっているのがわかる
殺される前の犬たちの写真や映像は
これまでにも他のメディアで出ていたけれど
10頭ぐらいがいっしょに殺されて
山をなしている姿は
はじめて出たのではないか

犬たちは重なりあいながら眠っているようで
ずいぶんとやすらかな様子にも見える
いつも死は
こういうもの
死の瞬間が過ぎた後のからだは
人でも動物でも
ふしぎなほどの静かさ

見ていると
どの犬も若い犬ではないとわかる
子犬の時に飼われはじめて
それなりに可愛がられはしたんだろうけれど
成犬になって図体が大きくなれば
エサの量も増えるし
毛のツヤも褪せてくるし
目もとも黒ずんできてわびしくなるし
まるで人間の初老のように
むさくるしくなってくるだけ(と
ぼくが思うのではなく
そんなとらえ方をする人々が
この国の「善良なる市民」の大半を
しめているわけ)
人間も古びれば捨てられていくのだから
ペットたちなどひとたまりもない
炭酸ガスで殺すドリームボックスは
アウシュビッツとか
トレブリンカとか
お見事なまでにソフトな
ナチスの殲滅収容所の伝統継承だが
人間さまそのものに対しては
もっと新しいウルトラソフトな
処分方法が刷新開発途中
たとえば年金削減とか
医療費負担増加とか
被雇用者の権利縮小とか
じつは平成にっぽんそのものが
大がかりなドリームボックスだとは
まだまだ認識されきっていない

メメント・モリ
死を思え
という言葉があるが
他者の死を思え
と幾重にも変奏しなければならず
そうして
自分の死を思え
と幾度も返ってこなければならず
その上でさらに
死を思え
とふたたび戻ってこなければならない

メメント・モリ
と新日本国憲法の冒頭に
どうして記していけないことがあろう
ケネディが言ったように
We are all mortal**
われわれは
みな死すべきさだめ
なのだから

あいかわらず
永遠に
なすすべもなく
死すべき
さだめ

そこからしか
このモノの世での
生の価値も
方向性も
仮構築しようはない……





*「週刊朝日」2007年3月30日増大号、159〜164ページ
**1963年のアメリカン大学卒業式におけるJohn.F.Kennedy演説The strategy of peace(平和の戦略)より

※作中の数字表記には、あえてアラビア数字を使用した。





「ぽ」179 2007年5月

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