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死の淵



二〇〇七年五月三十日午前二時半頃
就寝中
夢ヲハルカニ超エタ速度ト強度デ重イ闇ノナカヘ引キ摺ラレタ。
ソコデ与エラレタ指シ示シ。
コトバナキ啓示ナガラ
――死トハドウイウモノカ、見ヨ ト
豪腕デツヨク頭ヲ押サエツケラレルヨウニ経験サセラレタ
死ノ淵ノ構造――




ことばが急速に消滅していくと感じるや
ことばが〈思い〉で〈私〉だったとわかり
それら三様の顔を持ったものがすっかり失われるぎりぎりのところにいながらも
視界でも思界でもなくなった
ただの界はあり続けるのだとわかった
しかし認識というものはことばの失われたゆえに

ない 現世で生きているあいだのあれこれの思念や行為のどれもが
いかにもことばそのものなのだった
死の地点にはことばも像も印も音もなく
ながく現世で慣れきってきた
ことばや像や印とともに界を認識し動く癖を
すみやかに脱ぎ捨てねば
ここでは
いつまでも息のできないような苦悶に苛まれる

いっさいのことばを脱がねばならないのが理解される
そこがどこか
どう進み
どのようにすればいいのか
そんなことさえことばによっていたので
構成しないようにすると
そのまま〈思い〉も〈私〉も失われていくのがわかる
しかしふとした拍子に〈思い〉はすぐに甦り
続けてすぐに〈私〉も戻ってくる
〈思い〉と〈私〉の甦りはそのまま激しい苦悶を惹き起こすので
それらを構成しないように
ことばなしに
ふたたび努めはじめねばならない

死の淵まで来たことのない者は
つぎつぎと思いつかれてくるあらゆることばを
即座に離れ続けなければならないのがどのようなことか
つよく想像せよ
死の淵では否応なくそれが強いられ
それをすみやかに受け入れないかぎり
激烈にして極みの窒息の苦悶が無限につづく
受け入れて楽になるわけでもないように思われ
受け入れれば経験したこともないような更なる苦悶に陥ると感じられ
あまりに多くの人がそこで無理をして踏み止まろうとする
その地点で
ことばも〈思い〉も〈私〉も離れて
なにもないようかのようなあり方に変わらないかぎり
苦悶と闇が底知れぬ深さで続く
生前に得た知識と経験と思考の数々のいっさいは
死のこの淵ですっかり落とさないかぎり
すべてを妨げ続ける
現世でよいものとされたいっさいは
死の淵を越える際の妨げ
というのもすべてはことばによるものであり
ことばとは罪だからである
ことばと〈思い〉と〈私〉が罪だということを
死の淵に至る時にはだれもが知らされる




[これは詩ではない。導かれるように経験したものを、なるべく近いかたちで現世のことばに表わそうとした備忘録である。ちかく死を迎える人々には幾許かの導きとなるだろう。生は死の蛹に過ぎない。それを忘れて久しい現世の浅はかな習俗を、だれもが死の淵で、たったひとりで、いかなる助けもなしに完全に捨て去らねばならないが、その具体的なありようを人間のことばで表現したものは稀である。私が「死ノ淵」と呼ぶこの地点について、なにが起こるか、なにが強いられるか、もちろん、別の表現法もありうる。しかし、二十一世紀初頭時点では、ことばと〈思い〉と〈私〉の放棄という観点がもっともわかりやすい。死とは肉体の喪失ではなく(肉体は、もともと〈私〉には属していない)、ことばと〈思い〉と〈私〉の喪失であり、そうあらねばならない。こう認識しておくと否とでは、死の淵の経験は激変する。そうあらねばならない、というのは、それらの全き喪失が成就されない場合の苦悶と悲劇は甚だしいからである。]





「ぽ」184 2007年6月

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