[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]


 自然に崩れ落ち、なだれていくかのようなこの認識の旅、
「人間」の剥がれ



「霊眼」を開発した人は、遅かれ早かれ一度も物質界に現象したことのない存在に出会うが、その存在は人間よりも高い存在であることもあるし、低い存在であることもある。
ルドルフ・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)




いつか誰かに言っておきたいと思っていたのだが、夢でよく、不思議な館を訪れる。はじめは恐ろしく感じた。なにか人間ではないものが、こちらの目の前では人間のようであろうと努めているらしく、足が尾びれであったり、目が蛙であったり、鶏冠があったり、握手する手の甲が鱗で覆われていたりしている。挨拶のためにむこうから近づいてくる人々が、たぶん、歩きながら変態しているのだろう、鳥や魚や蜥蜴などから人間に変わっていく途中のさまも、よく目にした。わたしの近くに現われる際には、皆、ともかくも人間のすがたをしてはいるのだが、それとても、たえず大きさが変化しつづけている。今しがた大人の背丈だった背後の人が、ふと振り返ると、腰ほどの背丈の子供になっていたりする。いちばん驚いたのは、子供だと思った相手が、つぎの瞬間、わたしの二倍ほどもある巨大な胎児になっていた時だった。ファンタジーの物語で描かれるような不思議な世界というのは、ほんとうにあったわけかと、それなりの現実主義者であったわたしも反省するようになり、この奇妙な館にも次第に馴染んでいった。

この夢から覚めるたび、わたしは寝室の四方を見まわしたり、手や足や目蓋などを動かしてみて、ふつうに人間だと思われている形状を自分がなおも(ふたたび?)しているのを再確認してみたり、そうして起き上がって、廊下や台所や洗面所などを歩いて、いつもどおりに、自分の家だと思っているものがそこにあるのを認め直す。テーブルに新聞やマーケットの広告チラシがあると、いわゆる現実なるものにほんとうに戻ってきたのか、と安堵する。見違えるほどこんなに痩せました!と謳うダイエットのチラシや、健康食品のチラシを見ると、いっそうホッとする。それらが表わしているのは、一般に人間が人間であるための微妙な必要条件であるように思えるのだ。他の世界がほんとうに存在するのを知り、それをたびたび体験するまでは、ありきたりの現実というものは、退屈であったり、わかりきったものであったりする。しかし、異界から戻ってくると、このありきたりの現実はありがたく、安らかな気持ちにさせられる。精神と肉体との二元論の相克と矛盾や、さまざまな欲望に苛まれつつ土台のない希望に向かおうとする人間なるもののイメージが、柔軟性を欠いた狭い価値観で支えられている少年期の友情物語のように懐かしく、可愛らしい。

意識といっしょに奇妙な世界を通過してきた身体を、まるで人間のふつうの身体ででもあるかのように身づくろいして、仕事のために、用事のために、買い物のために外出する時、わたしはいつも、執拗で根源的な嘘を人界に対してついていると感じる。人間が人間に出会うことで回っている現実世界など、嘘なのだ。ほんとうは、数え切れないほどの人間でないなにものか達が流入しており、あたかも表象界の統一貨幣ででもあるかのように「人間」をたがいに装い続けているにすぎない。上っ面の「人間」の上に無用心にも重ねられていく好ましき属性を信頼していけば、わたしたちは「人間」の下に蠢くものを認識することから遠ざかってしまう。生きるということは、「人間」を生きるということではないのだ。

いつか誰かに言っておきたいと思っていたのだが、夢でよく訪れる不思議な館や、そこで出会う人間ではないものたちが、夢を見ていない時でもわたしの意識に大量に流入するようになっている。意識にばかりではなく、現実と呼ばれる、いわゆる客観世界にさえも。信号待ちをしていると、サングラスをかけたサメがハンドルを握ったレクサスが走っていく。レジ係は、日本カモシカであったりする。駅前の広場で集まっている大学生の大半が、イタチやリスやネズミであることにも最近気づいた。いや、もっと正確に言えば、そうした動物たちに見えるようななにものかこそ、これまで「人間」だと思いこんできたものの実体であるのに気づいた。もちろん、そこで止まるべきではないかもしれない。動物に見えるなにものかというのも、ある時間における一字的な様相に過ぎず、実体というべきものは、さらにべつのかたちであるのかもしれない。あるいは、実体と呼ぶべきかたちはなく、定まったかたちを持たないのが彼らなのであり、また、わたしであるのかもしれない。

自然に崩れ落ち、なだれていくかのようなこの認識の旅、「人間」の剥がれが終わる気配はない。わたしは近ごろ、毎日、最低限のコミュニケーション維持のために、必死で「人間」概念を支え続けるのに労力を割くようになった。「人間」が嘘なのはわかりきっているのだが、これを嘘だと表明して捨ててしまえば、わたしたちを繋ぐものは、いまのところ、なにもない。ヒューマニズムというものが、今さらながら、エスペラント語のようなものだったと気づく。真相探求の旅は、つねに共通言語としての虚構の維持とともに進められなければならない。相反する方向に伸びるふたつ以上の運動性の根として以外、わたしたちが宇宙で生きていく方途はない。





「ぽ」187 2007年6月

[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]