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その夕べ下高井戸から三茶に戻る



下高井戸には棲めない、棲めない と甲州街道沿いを歩く
大きな道に貫通された街は枯渇するのだ
少し北へ下れば神田川だというのに行く気がしない 駅のほうへ

        逃げる。

ああ
                下高井戸二丁目は寂しい
枯渇したまま 生き延びようともせずに死に切っていない街
枯渇した街だ
此処にはなにもない

京王線を渡ると時代は日大通り
時代は道で 松沢小のあたり 棲めそうな流れ 音盤店オスカーで
そういえばラフマニノフの聴いていなかった演奏盤を
ドウシテ此処デ買ッテハイケナイカと探す アシュケナージの
2度目の録音盤を聴いていない ドウシテソレヲ買ッテハイケナイカ
此処デ 此処デ。

         買う。

           (Rachmaninovユs Piano Concerto 1−4, by Vladimir Ashkenazy
                     & Andr Previn + London Symphony Orchestra, 1970,1971)
                     家に帰ってから少し驚くことになる。セロハン装の上にさらにCD
                     専用の透明ビニールケースがかけられて、包装袋に入れられていた。


隣りの長尾化粧品店では高級化粧品がすべて20オオフで売られていて
妻はSK−のホワイトニングマスクを此処で買おうかと迷う 買っちゃった
ら? 僕ラノ住ンデイル三軒茶屋ニハ無イノ? せきぜんニハ無イノ? ない
の セキゼンでは安めの化粧品が安くなっているだけで ここの場合はホント
ノ高級系が安い どうしようかなあ 買ッチャエバ? ドウセ買ウンデショ、
ドコカデ?

         買う。

長尾化粧品店の主人は瞬きもせず大きなギョロ目で妻を見つめ、「(あなたには)
これ。」と相応しい商品を提示したという。八卦師のように顔を凝視して肌を見
通すようだった、と。あれで顔が長かったらスター・トレックの、あの、ほら、
なんとかいうあれ、耳の長い登場人物、あれだね。でも、あれより、あれだ、
すごい雰囲気だ、あれより、あれ、ぎょろ目で、通りを瞬きもせずに見つめて
いる長尾化粧品店主人であることよ。

侮リガタシ、下高井戸

日も暮れて下高井戸散歩継続
古書とレコード『バラード亭』に辿り着く
きれいに本が置かれていて あ、座って読めるように椅子まである
メインは澁澤龍彦であったり植草甚一であったり
みすず書房や国書刊行会や国文社などのものが麗々しく(透写紙で覆われて)
並ぶ
その中にフランス語版のサド二冊、ジュスティーヌとソドム
どちらもよく読まれていて
適切な語釈が黒々としたペン書きで余白に所々(コレナラバ価値アル書キ込ミ
トイウベシ、ヨク勉強シテマスネ、……) でも

         買わない。

持っているから。
買うよりも、売りに来たい古書店だ 此処に置いてもらえば、ふさわしい次の
持ち主にわが書たちは流れていけるに違いない

三茶に戻っていく
世田谷線は少しだけ楽しいが
             世田谷は       侘しい
             東京は        寂しい
             世界は        寂しい
             此処にはなにも     ない
             世田谷、東京、世界   には

環七を電車が横切るとき踏切が降りて自動車が止まっている
環七も                     寂しい
日も                      暮れて
空気の汚れもすっかり遠い日の霧のように     寂しい

三茶に戻っていく これが
世田谷というものだ パリの
サンミシェルではない
パリだって寂しいところだらけだけれど
パリを愛でるやつは馬鹿だ

下高井戸から帰ると餃子が食べられねばならない
スターバックスわきの宇明家はウメイカ? 食べたいのはごくごく普通の
つまらぬ細工のない餃子なので迷う 入ルベキカ入ラヌベキカ

           入る。

ああ。
宇明家餃子は売り切れていて特選海老餃子スタミナニンニク餃子豚キムチ餃子
カニマヨネーズ餃子をとり
不味くはないがこの程度のものか
しかしビールはハートランドがあり宇明家スタウト黒生があり
しかし餃子には満足せずに
もう一軒試したい
弦巻なる清水鱗造がたいしたことはないといっていた東京餃子楼へ

           入る。

忙しく立ち働く白装束白キャップの店員たちの慌しさは楽しく餃子は安いが
味の素で甘い油の多い具はふたたび来るに及ばない
ほとんどの店の餃子がうちで作るものに及ばないとわかっていくのは
慶賀すべしや
寂しむべしや

帰宅後ハイデガー存在と時間の某箇所を繰り直す。桑木務訳より原祐訳のほう
が今夜はよい。その後新古今の夏歌数ページ。BurroughsThe Western Lands
少々。今日の最後はClaude Simon:Triptyque

―ぼくの肩書き、今後は「読書家」っていうのがいいかもね。
―いいかも。ユーモアと皮肉と事実が入っていて。

そうとも。読書家。それ以外の、(ああ主よ)、なにものでもないんだから。
                    (ペソアのように。)







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