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源を捨てよ(附「創作メモ」)




音のある寒さだ
すべてが
生まれる前の


なかに入っていくと
からだ
剥げ落ちた
こころ
古い肌みたいに
ぱりぱり
落ちていった

また捨てちゃったわけだ
どこに
どのように生まれ
どう生きていたかさえ

今生は
すこし留まれ
と言われている
(またまたぁ…)
簡単に
からだや
こころを
捨てられない人々の
気持ちを知るようにしなさい
と言われている
(またまたぁ…)

それでも
冬になると
寒さの音
そのなかへ
入っていきたくなる
源へ
(ほんとに、源か?それ?)

源を
捨てよと
しかし
言われている
(またまたぁ…)




■創作メモ
 この『源を捨てよ』は、二〇〇八年の夏には書きあげていた。しかし、ここに載せたかたちには、原型はあまり残っていない。知人たちには、ぼくが詩篇をはやく書きあげて、すぐ人に見せるかのように映るらしい。が、たいていの場合は数か月置いておきながら、一語ずつ修正していくような作業をくり返す。そういう作業の遅速の差というものはあるが、時間という点では、どれもずいぶんかかっている。例外的なのは、時事ネタを扱う詩篇の場合である(時事ネタ、政治・社会ネタは、いわゆる「現代詩」が意図的に排除したモチーフである。詩とのぼくの関わりは「現代詩」の詩学の全否定とパロディ化から始まったので、政治や社会ネタを積極的に扱うのも自覚的な方針となっている)。
 最初から過去や未来が概念として不可欠な場合を除いて、ふつう詩篇のようなものを書く時には、動詞は不定詞を使う。日本語文法的にいえば終止形で書く。文尾はつねに、終止形でまず書きあげてしまうということになる。可能な限り表現を簡素にするという約束が詩にはあるもの、と思っているので、時制は現在形で通せるかぎりは通そうとし、助詞や助動詞の使用も極力単純にしようとするのだが、時にはあまりに翻訳調を残し過ぎる場合が出てくる。助詞や助動詞の利用は、その時点からの考察対象となる。
 この詩篇の場合、第一行が「音のある寒さだ」となっているが、文末の「だ」は、本来、創作時のぼくの意識にはあり得ない語「だ」。「だ」や「である」を嫌うことがいかに激しかったか、個人的なことながら、それだけでも短い回想録が書けてしまう。もともと嫌いだったところへ、谷崎潤一郎や丸谷才一の文章作法を高校頃までに読み込んだ結果として、悪い意味での援護射撃理論もできてしまった。ここから抜けるには、「だ」や「である」にそもそもユーモラスな味わいがあるのだと気づき直す必要があったし、これらに備わる独特のやさしさ、やわらかみを確信する必要があった。英語やフランス語で言えばIt’sやC’estにあたるものなのだから、ニュアンスを読み取り過ぎるのもよくないと思えるようになるには、ずいぶん時間がかかった。
 だが、今回このような創作メモを付しておこうと思ったのは、こういったことを記しておくためではない。作中に何度か出てくる「(またまたぁ…)」や、一度だけ出てくる「(ほんとに、源か?それ?)」について記しておきたいと思ったためだ。
 ぼくが最初に書く場合、「だ」や「である」さえ抜きにして書くぐらいだから、これらのカッコ内の言葉はまったく抜きで発想する(詩作は、感情素も含めたいくつかの表象が与件として集まったところに自動発生する思考運動なのだから、いかようにも開始できる。ヴァレリーが数学的だと言いたかったのは、この運動性のことだろう)。詩としての出来不出来はともかく、これらカッコ内の言葉など無しで作品は成立しうるし、むしろそちらを選ぶ人々も多い。いまだに多いだろうと思う。ルネ・シャールやツェランだったら、明らかにそのほうを選ぶ。プレヴェールでさえ、ほぼそちらを選ぶだろう。見栄えの硬さを望んだように見えるシュールレアリストたちもその路線だろう。ブローティガンならちょっと違うだろうと思うが、戦後社会にあって個を強制され、集団への有効なアクセスを断たれたという認識から来る悲愴感や切迫をいまだに主旋律にしている「現代詩」正統系では、やはりこちらの方向で来るだろう。
 そろそろこの詩篇をいちおうの終わりにしておかないと作り忘れてしまうと思い、とりあえずの完成形にしようと思いながらぼくがやったのは、ところが、「(またまたぁ…)」や「(ほんとに、源か?それ?)」を加える作業だった。すでに記した通り、詩歌においては最大限の簡素さを追求するべきだと思っているので(吉増剛造から離れざるを得ないのは、この地点においてである)、類表現を付加しすぎるのは最初から禁じ手なのだが、それでも最低限、これらだけは書きくわえておかないとマズイと思ったのだった。これらの表現が持つ意味作用は一目瞭然で、主文における状況認識や方向選択、意志などに疑義を差し挟むものになっている。これらはもちろん、新しい方法でもなんでもないのだが、簡潔な効果を求めようとした短めのシンプルな詩篇においてさえ、いちおうの完成形に仕立てようとなると、絶対にこの程度の反主文性表現は挿入させなければならないと痛感していることに改めて気づかされた。これはもちろん、視点や価値観や主体の複数性を、いかに短いものであれひとつのテキストに組み込まねばならない必要性、ということでもある。
 ここに、平成に入ってからの詩感覚の大きな断層があるとも思う。「(またまたぁ…)」や「(ほんとに、源か?それ?)」を付け加えねばと思うかどうか、むしろ、そちらのほうをこそ重視するかどうか。いまのぼくにとっての「詩」は、ここに象徴される境目のこちら側に意識があるかどうかにかかっている気がする。これらの表現を付け加えない(で済むと思っている)詩人たちが、すでにまったく「詩人」とは見えなくなっているのは、ぼくにおいては、かなり前からの事態なのだ。
 個人個人の思想や感想のあり方は、どのようなものであれ、すでに昭和の末期において他者からは共感され得ないものになっていたが、平成に入ってからは、趣味や興味の多様化にともなって、趣味や興味における共感の消滅も一般的になった。お隣さんがなにに興味を持って楽しんでいても没頭していても意気込んでいてもけっこう、ということは、お隣さんの興味や趣味になんの重要性も認めないし関心もないということである。よかれ悪しかれ、そこにぼくらの現代はある。詩歌は、どのようなモチーフやテーマをダシにしつつも、とにかく現代そのものでなければならない*以上、「(またまたぁ…)」や「(ほんとに、源か?それ?)」の類を付加しないかぎり、政党の単一志向性マニフェストと同じようなものになる。発語するそばから、自分でそれを否定しクサしていかないといけない、さもないと、あまりに古めかしい演劇になってしまうという言語的事態。なにを差し置いても、まずこれを現出させるものが現代の「詩」ではないか(と、ボク的には思うネ。と同時に、どうして「あまりに古めかしい演劇」を演じてしまってはいけないのだろう?と疑問がわく。この奇妙な無償の義務観はどこから来るのか?これだって、非常に古めかしいアバンギャルドぶりじゃないのか?ロシア革命前夜でもあるまいし)。
 ただでさえ、他のどの詩人や文学者、文芸愛好者とも趣味も感覚も一致することはないという唯一の土壌の上で書かれ読まれる他ない現代の「詩」、つまり、共通感覚の絶対的欠損、共感者ばかりか、読者や批判者さえ完全に不在となった場所での「にもかかわらず、なにをすき好んで寂しく書くの、坊や?」的エクリチュールである「詩」は、自らのテキスト上にあっても、とりあえず最初に選択した主体の属性や運動性の否定やはぐらかしに絶えず配慮し続けなければならない(のか?)。おそらく、こうしたことの認識からしか、平成のいまの「詩」は発生しようもないし、見方によれば、こうした認識を得た時点で、一行も書かずとも「詩」は発生しているともいえる(のか?のか?)。ブランショも注視していたが、シャトーブリアンの友で全く作品を書かなかった「作家」ジョゼフ・ジュベールJoseph Joubert(1754-1824)のように(あぁぁ、雑学のちょっと出し…)。
 これは、要約すれば「詩」は先ずもって「認識」であるということになるが(評論家ぶりしちゃって、マッタクゥ)、もちろん、これはすでに古過ぎる二十世紀的認識でもある(こういう翻しもエセ評論家たちの常套手段)。せめて、「詩」は「非認識」である、というぐらいには踏み出してもいい(これも同じく)。
 ならば、現代性の放棄へも?(来たね。コラムによくある終わらし方。やれやれ…)



        *もちろん、これがボードレール由来の古いオーソドックスな思い込みだと言われれば、それは認めなければいけない。だが、その時には「では、どうするの?どう考えるの?」という問いを即座にお返しする。代案を出せと迫らねばならないのは、政治も文芸も同じことだ。もっとも、ランボーはすでにIlluminationsの中のDevotion(献身)を、Mais plus alors(しかしもう「では、それで?」はナシだ)と結んでいる。代案を求める思考方法論を一文で否定しているとも見える。大げさに言えば、ランボーはここで、「詩」における対話的理性(ハーバーマス)の無効を認識し、方法論的に拒否しているとも見える。ロートレアモンの『ポエジー』T・Uのように、ランボーの詩作自体が、ボードレール超克の戦略論として残されており、いまだに根底においてはボードレールを消化し切れていない日本の「詩」にあって、彼らの戦略論もそのまま宿題として残されたままになっている。
(なんだか、やっぱり、おフランス文学ちょっと齧りました風。いやだいやだ、やんなっちゃうよ。でも、だからといって江戸文学に飛ぶってのもゲロが出そうな常套手段。アニメ分析に向かったら泥沼だし…)





「ぽ」331 2009年1月

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