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しばらくそこにいただけのきみなのに



きみは急に目のまえにあらわれた

先頭車両には まばらな乗客
郊外への出勤や登校の途中らしく
たいていの乗客は うとうとしたり 眠りこけたり
たぶん 電車の先頭からのけしきを見せようと
お母さんはきみを抱いて乗り込んできた
ピンクの服を着せられて
赤い小さな靴を履かされていたから
女の子なんだな きみは

走り寄ってくるレールの眺め
しばらく静かに見ていたようだけれど
きみは飽きる
レールには 目も鼻もないからね
あたりを見まわしはじめる
そうして 目があった
そうして 出会ったわけだ
きみとぼくとは

話しはじめると長くなるし
うまく言えるとも思えないから
みじかくまとめて言うけれど
ながいあいだ
ぼくは乳児とペットが苦手だった
乳児とペットのまわりにわきあがる
カワイガレ、カワイガレの
あの強要の波
あれがつらくて
そっとそっと身を退いていって
息をつく
目の色かえて席とりするオバサンたちが
どうして乳児に相好を崩すのか
傍若無人にけたたましくしゃべっている娘たちが
どうしてペットにはしずかになるのか
いやないやな感じで
ぼくは身を退きつづける
ペットにあざやかな服が着せられていたりすると
もうだめだ
いたたまれない

きみはとってもシンプルな幼児服で
なにより お母さんが
白いポロシャツとジーンズというシンプルさ
こう言ってはなんだけど
お金持ちっていう感じじゃなくって
いまはきみこそ最高の宝もの
きみとお父さんが宝もの
そんな感じでお母さんは抱いていたっけ

きみはときどきぼくのほうを見て
笑っては
お母さんの胸にかくれる
またこちらを見ては
笑って
かくれる
そうしながら 振っている腕の
なんと細いこと…
痩せすぎているのではなくて
きみらにふさわしい腕の細さだけれど
ふいに気づかされたのだ
きみの腕の
こういう細さは
とってもうつくしくて
大切なんだと

しばらくそこにいただけのきみなのに
未知のいろいろなものへの扉を
ぼくのなかに開いていってくれた
きみとお母さんが降りて
きみとお母さんのもういない
先頭車両の窓のあたりを
ぼくは
しばらく見つめていた

梅雨が明けようとしている
もう 真夏が来るね
開いたどの扉のむこうにも
さまざまなきみが待っていそうで
今からちょっと楽しみな
今年の真夏






「ぽ」88 2005年7月

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