[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]


だれも知らないながい廊下



ながく廊下の通じている家を選んでよかった

夜中につまらない調べ物をしたり
粗末な書きものをしたり
そうして疲れて目をあげると
ながい廊下がずっと向こうまで通じている
もう電気の消えた小さな居間と
オレンジのあかりの灯った小さな寝室が見える

ただこれだけの光景が
毎夜毎夜のわたくしの感情となる
ながい廊下とその先の寝室が
わたくしの感情にものがたりを付けてくれる

書斎などという言葉を平気で用いるような
教養ぶった恥ずかしい精神に堕さないように
わたくしはある時
ミカン箱やワイン箱をもらってきて机を組み立てた
表面をやすりで磨きはしたが
注意を怠ると腕やてのひらには棘が刺さる
そういう机に向かって
貧相なランプを灯しながら
疲れた目で読んだり書いたりするのは
つまらないこと
つまらないことと呼ぶのが
わたくしは好きだ
これを仕事と呼んだら
ただちに死んでしまうなにかがある

自由とはなにか
自分に誠実とはなにか
だれにも話す必要のない方針をこそ
倫理とも
真理とも言ったはずだろうに…
悪魔のように誠実*、とか
心の友は稀なるものなり**、とか
思い出す言葉は
思い出すだけにしておく時に美しい

わたくしの家の
ながい廊下の夜の光景も
だれも知らないが
だれも知らないままにしておくことで
保たれる美があり…

たぶん
これによってだけ
生き延びていられるような気が
わたくしはしている





*ヘンリー・ミラー
**『葉隠』






「ぽ」105 2006年5月

[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]