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コリンズグラスを握ったままで
八月のように終わっていく者たちのさなか
(あるいは、コリンズグラス、「握ったまま」から「もう握っていない」まで。さらに「また握ろうと思い」を望見しながら……)




賜(し)や始めて与(とも)に詩を言うべきなり。諸(とも)に往(おう)をつげて来(らい)を知るものなり。
                  『論語』学而篇十五(貝塚茂樹の読みによる)



あのように私たち生きてあのように
死んでいった
コリンズグラスを握ったままで
八月のように終わっていく者たちのさなか
私たちも終わっていく者たちのなかのふつうの者たちの幾たりかで

 [今の私は思う、私たちとはふつう何人ほどか
  私たちというほど、ほんとうに大勢いるの?
  いるの?いるの?いないの?ひとりなんじゃ
  ないの                ?]


                             霊のように
すーっと離れて浮いている「?」、
                ハテナ、くえすちょんまーく、さびしく
まるで
    る
      のように

            ………………私たちは[ ]の中で今さっき離して記したのよねぇ

                              ねぇ


八月のように終わっていく者たちのさなか
あのように生きてあのように
死んでいった私たちの姿を巻き戻すように胎児しちゃって → 「?」

る のように → 「?」

? の似てる → 「る」 ってことだわねぇ

だわねぇ


      こうして言葉の外は生きられずに
      こうして言葉の素と灰着られずに


             (ああ、決定的な短い言葉を吐く詩人がほしい)
                              (いない)
                          (ひさしくいない)

決定的な言葉、危険
踏み外すから
決定的と受け止められない時には、危険
詩人
死ぬから


(わたしがまっているしじんはどんなひとなのだろう
(じんせいのそこがさっとぬけて
(えもいわれぬじゅうじつしたふかいところにつれていかれるような
(そんなしをかくしじんにはやくあいたい
(きっとふつうのひととしていきて
(こうしているあいだもまったくめだたず
(どこかでひそやかにいきをし
(ひそやかにあるひしんでいくひとだろうか
(わたしがしっているのは
(あのしじんでもなく
(このしじんでもなく
(あんなしじん
(こんなしじんでもないということ
(わたしのじんせいがひどくびんかんになって
(きたるべきしじんのことばをうけとめようとふるえている
(いまから
(ふるえている



……、「私たち」とは、ふつう、何人ほどか、
声もたてず
足音もほとんどたてずに
移動していく人の列が心の奥に見える
あの列と「わたしがまっているしじん」とは関係があるのか
あの列が「しじん」なのか
起こったのは
テーマの変異か、偏向か、
これまで通用し多用されてきた詩法を
やみくもに壊そうとしているのはたしかで

コリンズグラスを握ったままで
八月のように終わっていく者たちのさなか
そう記したわたしは
もうコリンズグラスを握っていないが
また握ろうと思い
八月と九月のあいだの月へと
出かける

終わっていく者たちも
ふつうの者たちも
もう
いない

とりわけ
「ふつう」
という言葉を使わねばならない
人びととのつきあいは
終わった





「ぽ」156 2006年10月

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