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ARCH 6

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇四年十二月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




書く、くだらない、書く

 いろいろなことを感じたり考えるが、それらを書きとめないようになって、もう数年が経つ。ものを書くことが幼時より好きだったので、書かないことは、ぼくの場合、歳月とともに培ってきた努力の産物だ。気を抜けば、書いてしまう。明け方まで書き続けて過ごしてしまう。ずいぶんと、それをコントロールできるようになってきた。この達成は、ぼくにとっては自己変容と呼べるほど大きなものだ。
 だから、ものを書くということについて、世間一般の文芸趣味の人々とは、まったく対立する視点を持っている。書くことは、くだらない。収入に結びつく場合だけ書くべきだ。そう躊躇なく言える。ぼくがこう言うのを聞いて、腹を立てる人もいる。しかし、ぼくのこの言葉の背景には、少なくとも四十年以上の無益な書き散らしの歳月があり、徹夜して迎えた数え切れない朝のむなしさがあるのだ。たいていの場合、腹を立てる人の側にこれだけの時間の浪費経験はない。未熟者め、と心の中で切り捨て、ぼくは言い添える。「いや、くだらない、というのは、ぼくの場合は、ということですよ。才能と運のない、このぼくの場合は、ということ…」。日暮れて、道遠し。わるいね、アマちゃんと付き合ってる暇は、もうぼくにはないのさ。
 書くことを意味づけようと必死になっていた時期は長い。そういう期間も無駄だったとは思わない。というのも、いくら意味づけをしても、無駄は無駄だと悟ったから。無駄ということについて、貧弱な概念を持っているというわけでもない。他人から見て無駄のようでも、個人的に心のひっかかりを解消するような行為はある。しかし、それを有意義だったなどと公言するのは、たんなる野暮か、青二才だ。
 こうして、書くこと一般のくだらなさをようやく知るに至ったぼくは、もはや、自由詩や短歌や、テーマを文芸や思想に絞った論文とエセーしか書かない。これらは、書くことの範疇に入らないからだ。これらを書くとき、自由詩形式が、短歌形式が、論文形式が、ぼくをしばし領し、現象化する。ぼくは書いているのではなく、形式たちが、現象手段としてぼくを利用しているだけなのだ。主体はこちらではない。形式たちが主体なのだ。
 したがって、書かねばならない。なぜ「したがって」なのか、多くの人にはわかるまい。書かない、と言ったそばから、なぜ「書かねばならない」なのか、これもわかるまい。書くことは生きることだからだ。書かないなら、誰ひとり生きてはいない。わかるまい。形式に嵌まり込んで書くのは、書くことではない。わかるまい。自由詩、短歌、論文、エセー、どれも、書くことではない。わかるまい。売れるようなものなら、書くに値しない。わかるまい。書くことはくだらない、書かねばならない。わかるまい。「くだらない」からでもなく、「くだらないけれども」でもなく。わかるまい。書く、くだらない、書く。わかるまい。
 わかるまい、永遠に、書くことが戻ってくる。諸形式からもっとも遠い言語配列への夢と衝動が。注意しておかねばならないのは、書くことは否定でも過去の忘却でもないことだ。「あのように」でも「このように」でもなく書く者、そういう彼や彼女の内部にのみ、人類古今のあらゆる文書と文芸が甦る。甦るのは、学者たちや教養人たちの内部にではないのだ。







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