[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]


ARCH 7

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇四年十二月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




男女愛について


 愛について語ろうとする文章って、出だしはどうあれ、お終いはかならず曖昧な、巧妙なごまかしに終わる、と決まっている。高次の愛について語る場合にも、男女愛について語る場合にも同じことで、まあ、ようするに、読んでも読まなくても、どうでもよいといった文章ばかりだ。
 そこでこの文では、長きにわたる伝統を逸れて、男女愛の本質についてズバリと指摘しよう(!)と思うのだが、そのためには、きっと、《サーカス》の『アメリカン・フィーリング』というナツメロを引用しておけば十二分のはずだ。

  心洗う 旅の日々
  自由な空に 誓ったのよ
  愛する人は あなただけ
  今日から もう何も迷わない

 これは『アメリカン・フィーリング』の第二連だけれど、男女愛の本質はこれだけの中に過不足なく表現されているといっていい。歌の内容は、どうやらアメリカにいるらしい恋人のもとへ向かう女性の、飛行機上での内心の思いの流れのようで、かつて北山修が作詞して《はしだのりひことクライマックス》が歌った名作『花嫁』を思い出すまでもなく、生涯の伴侶として心づもりした相手のもとへ赴くこうした設定は、恋愛歌謡でのひとつの定型というべきものだ。飛行機になんども乗って海外に行った人ならわかるだろうけれど、いつもの日常の生活を離れて機上の人となる時の気持ちを思えば、「心洗う 旅の日々」とはなかなか言い得て妙で、俗な表現のようでいて、正確でもある。歌謡曲は、人口に膾炙すべく、かならず俗でなければならないのだから、これは見事な表現というべきだろう。
 愛という観点から注目したいのは、「愛する人は あなただけ」と「自由な空に 誓ったのよ」というところ。そして、「今日から もう何も迷わない」、と……
 ここにこそ、千万言の哲学的文学的思弁が語り尽くせなかった男女愛の真理がある!
   誓うのは、だれにか? 自分自身に、なのだ。ほとんどの男女愛についての論が、ここの最も重要なところを言わない。「愛する人は あなただけ」というふうに自分自身に誓い、「今日から もう迷わな」くなる、というのが男女愛というものなのであって、幻想ならばともかく、はじめから、相手とのほんとうの心の交流などないのだし、将来にもありえないだろうし、永遠にそんなものはあり得まい、という覚悟をすること、これが愛と呼ぶべき態度なのである。舞台裏を明かしてしまえば、「あなた」など誰でもよくって、重要なのはとにかくも一個の心身を選択して心的エネルギーを注ぐべき対象としてしまうことで、そうした設定を自らに対して行うこと、自分自身と契約を結ぶこと、これが男女愛というものなのだ。はじめからお終いまで、自分で自分を相手にして立ちまわっているだけのことである。
 人間というものは、いや、心というものは、最後の最後まで夢を保っていたいものだから、こういうエゲツナイ考え方を自分自身にさえ隠し続けようとするものだけれど、男女愛についてのこうした認識は、確実に役に立つ。自分の抱いていると思っている愛なるもののオロカシサを、こんなふうに悟っていけば、相手への思いそのものが自分のエゴイズムであることも、わかりやすくなる。さらには、こうした愛なるものの終焉ののちにしか、真に愛と呼びたいなにかなど、出現しえないのだということも、だいぶ、わかりやすくなるはずなのだ。逆説的な言い方だけれど、ほんとうに愛と呼びたいようななにかは、自分に「誓った」愛なるものの終焉ののちにしか来ない。
 そういえば、さっき話に出た『花嫁』でも、

  帰れない 何があっても
    心に誓うの

と歌っていたし、ナツメロばかりで恐縮だが、ストーカー時代到来を予言していた《あみん》の『待つわ』でも、

  私 待つわ いつまでも待つわ
  たとえあなたが
  ふりむいてくれなくても
  待つわ いつまでも待つわ
  ほかの誰かに
  あなたがふられる日まで

という恐るべき歌詞が歌われていて、これはむしろ恋の心理であり、真理であると言ったほうがいいかもしれないけれど、はじめから「あなた」の意思など一顧だにされていないのを表現し得ている点、やっぱり見事な成果だったといえると思う。







[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]