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ARCH 8

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇四年十二月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




人麻呂さんの目


 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の、……
 と来れば、だれでも、長々し夜をひとりかも寝む、と心に続けるだろう。
 人麻呂さんの有名な、とってもいい歌で、たぶん、日本の短歌というジャンルは、ここに極まっているし、ここに終わってもいる。
 この歌のいいところは、おいおい、この長い夜を、ぼくひとりで寝なきゃいけないっていうのかい?、っていう、本人には切実なのかもしれないけれど、ま、ちょっと我慢すれば夜はすぐ明けるものだろ、と軽く言ってやりたくもなるような、そんなどうでもいいようなことを言うのに、あしひきの山鳥の尾のしだり尾の…、と、枕詞つきの長い序詞をたらたら歌い下したところだ。もちろん、この、たらたらしたほうに重点があり、詩というべきなにかもここに降臨したわけで、恋人のいない夜をひとりで寝なければならなくなった人の、さびしいような、所在ないような気持ちなんて、使い捨てのダシに使われたに過ぎない。山鳥の尾のイメージに収斂させていくエロスの形象も粋だけれど、なによりも、抽象芸術そのもののような音の快楽追求が過激である。
 ashihiki-no/yamadori-no-o-no/shidario-no
と表記してみると、もちろん、現代読みの音韻によっているから、ちょっといい加減ではあるけれども、システム自体はそうかわらないとして考えてみれば、
ashihiki-no/yamadori-no-o-no/shidario-no
という音声構造上の梁であるi音の渡しぐあいが、重過ぎない程度の堅牢さを保っていて、すがすがしいし、
 ashihiki-no/yamadori-no-o-no/shidario-no
とするとよくわかるが、これらのoやnoのしっとりした音の置きぐあいは、それだけで、庭に散らした味わい深い古石を見るようだし、たっぷりした余裕をとって配置されている焼き物を見るようでもある。
 ashihiki-no/yamadori-no-o-no/shidario-no
としてみると明瞭になるが、i-noがくりかえされた後にo-noに移り、最後にio-noという、前置音iとoの結合に至るさまなども、見ていると、人麻呂さんという人の、奇をてらうようなものとはまったく違う、晩夏の軽い秋めいた風のような、じつに細やかな天才ぶりがよく感じられて、こうした音の並びのドラマを心にくり返しているうちに、ほんとうに、時間も場所も、自分というものも、忘れてしまう。
 長くなるから、下の句については詳述しないけれども、
 naganagashi-yo-wo/hitori-kamo-ne-mu
には、上の句のashihikiのところですでに予兆のあったaのドラマが、naganagashiというふうに、ひとしきり、起承転結の転にあたるものとして現れる。ここのところのnaganagashiも、ashihikiに先駆されていたもので、音声的な懐かしさが湧き起こるところだ。こうしたaのドラマの後は、上の句でiやnに導かれながら育まれたoが、
 naganagashi-yo-wo/hitori-kamo-ne-mu
というふうに、いろいろな子音と交わりながら遍歴をしていくのだが、最後には、eやuという初登場の母音に舞台を譲り渡して消えていく。ぼくは、この歌を呟いてみるたびに、ここのあたりが、『母音源氏物語』の宇治十帖にあたるような気がして、少ししんみりするのだ。eやuの誕生を喜ばしく思ったものだか、iもaもoも消えてしまった後の世界を寂しんだものだか、いつも、迷いがちになる。

 長いあいだ、短歌と付きあっては来たけれども、ぼくの場合、万葉からせいぜい中世までの歌を、このようにのんびりと読むための付きあいだったので、近代のこっくりとした味わいの才人たちに面白いものもあるとはいえ、現代の短歌を面白いと思ったことは一度としてないし、それにあわせて作歌しようと思ったこともない。いいのは、山中智恵子ぐらいだろうか。ほぼ一〇〇%の現代歌人が、すでに音を生きておらず、生活実感だの現代の喜怒哀楽の表現だのと、惚けたことをやっている。もちろん、だれがどんな言葉づかいで、どんな表現でなにを言ってみてもいいというのが文芸だから、それでもしかたないのだけど、純粋に音の配列だけを求め、単にその背景になるようにのみ、イメージや概念を適宜利用するという、そういう人々が、もっといてもいいように思う。中井英夫が、旧態依然の歌壇に抗して本当に世に出したかったのは、寺山修司でさえなく、じつは山中智恵子だけだったとは、よく聞く話だが、本当にそうなら、よくわかる気がする。
 万葉の時代に、すでに、抽象度のきわめて高い音声芸術に到達していた日本の短歌という詩の形態は、人麻呂さん以降、家持によっても、貫之によっても、定家、西行によってもぎりぎりの努力で持ちこたえられてきたように思うが、これらの詩神たちがいまの時代に現れたら、どうだろう、あいかわらず短歌のかたちで言葉を動かそうとするだろうか。後の四人の場合、ともすればそういうことにもなるかもしれないが、人麻呂さんなら違うだろうという気がする。長歌形式に引導を渡し、短歌を確立して、しかし、その実、後の時代をすべて、自分の仕事をおのずと模倣させるように強いてしまった観のある人麻呂さんなら、自然に、まったく違うかたちへと移るはずだろう。日本語でなにかを書くのなら、この人が移る、その先だけを見て書きたいと思うのも、いまの世になにかを書こうという者にとっては、当然の感慨だろうと思う。もちろん、後世の芭蕉さんの視点を無視できるものではないが、ぼくの場合も、やはり、人麻呂さんのこんな目を通して、日本語の詩文を見てきたように思うし、この先も見ていくような気がする。
 千三百年ほども昔の、なんと、遠い人を、と思われるかもしれないが、だいたい六、七十代ぐらい前の先達なわけで、時間の経つはやさを思ってみれば、このぐらいの世代の違いなど、つい、このあいだのことだ。
 どこの学校の中ぐらいの大きさの教室でも、六、七十人ぐらいは生徒が入るものだろうけれど、たったその程度の人数を遡ってみれば、そこには、人麻呂さんの時代がある。空間的な、こんな時間のつかみ方から想像をはじめるのが、ぼくの歴史との付きあい方でもあるし、詩文の見方でもある。







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