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ARCH 9

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇四年十二月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




超凝縮フランス文学講義


 フランス文学をすこし勉強したことがあると言うと、日本ではいまだに、ロマンティックな読書ばかりしてきたと思われがちだ。
 ぼくの場合は違った。主なテーマとしてきたのは、怨恨、権力、革命と反革命、殺戮、残虐、暴力、処刑、権謀術数から諸制度の問題にわたるあらゆる意味での政治的なるもの、そして、倦怠、死、崩壊、滅亡などといったものだった。
 多少なりともロマンティックに見えるテーマとして、なるほど、愛というものも(フランス文学では必須科目だから)いつも考えてきたけれども、ラクロやスタンダールを見ればわかるように、社会でのほとんどの愛は、男女のエゴと欲望の駆け引きであるミクロ政治学として発現しがちだ。差異化・差別化によって選別した特定の個人を囲い込んで、所有・独占しよう、し合おうとする負の行為を、なぜだかわからないが、どこの国でも、あたかも素晴らしいものであるかのように「愛」などと呼びがちである。フランス文学には、そこのところを看過しないどころか、徹底的に暴き出そうとする性質があるのだ。
 たしかに世界中の作家や詩人たちは、そういう愛の実質を超えようとし、抗って、なんとか、駆け引きや自己顕示欲の小舞台に留まらない、良きものとしての愛の神話を作り上げよう、と努力はしてきた。けれども、フローベールのように愛の虚妄を抉り出したり、マルグリット・デュラスのように無としての、死としての愛、というふうに結晶させたり、といった方向に収斂しがちなところが、どうやらフランス文学にはある。すべてを解剖し、冷笑し、性悪説に持っていこうとする癖が、いつもこの国の思考にはあるのだ。
 ロマンティックなんて、とんでもない。ぼくの大好きな、イギリス人の意地悪な皮肉癖、あれも相当なものだが、フランス人のものの見方の酷薄さにも、ほとんど壮絶といっていいものがある。
フランス文学を学ぶというのは、これを自分の骨肉とするということなのだ。
「悪意の人となりうる強さを持っていないなら、誰であれ、善良であっても褒められたものではない。それ以外の善良さなど、おおむね、怠惰か、意志の弱さにすぎない」。*
 これは、フランス的な思考をもっとも凝縮して表現したラ・ロシュフーコーの箴言だが、社交の場でにこやかに人の善意や善良さを褒めるそばから、内心でこういった命題をすみやかに形成してしまうのが、フランス的な精神というものなのである。
 なんだ、単なる皮肉屋か、人が悪いだけのことじゃないか。アイロニーのセンスが希薄になりつつある今の日本では、そう思われがちかもしれない。とんでもない。これは、そんなところには留まらないのだ。この箴言など、一般に社会で称揚されがちな、よい人間になる、更正する、などといったスローガンに根本的に対立する人間観を、それとなく、しっかりと提出してしまっている。
 悪でもありうる者だけが、ひとり、善でありうる。つねに善である者など、断じて、真の善ではあり得ない。そう言っているわけで、これを、ぼくなど、たとえば、大量虐殺を自らの手で行ったナチス党員だけが、人類の中で唯一、真の善良さに至る権利を持っている、という仮説に連結して考えたい欲望に駆られる。
 いかにもフランス文学的な言い添えをしておけば、欲望に駆られはしても、それを実行に結びつけようとする別の欲望を年がら年中抱いているわけでもないのだし、そもそも欲望や狂気ならなんでも肯定してみせて、プチ不良ぶりを披露して悦に入って見せるような二十世紀思想ふうの児戯に、いまさら組する気持ちも、必要も、ない。
 もちろん、「狂気なしに生きている者は、自分で思い込んでいるほど賢くはない」**らしいから、ここで、狂気や欲望に必要以上にすげなくしようというわけでもないし、そもそも、「自分ひとり賢明であろうとするなど、狂気も甚だしい」***のだし。



*ラ・ロシュフーコー『箴言集』、二三七番。堀田善衛氏の訳(『ラ・ロシュフーコー公爵伝説』一九九八年、集英社)をかなり変えた。
**同書、二〇九番。二宮フサ氏の訳(岩波文庫、一九八九年版)をかなり変えた。
***同書、二三一番。あれこれ見るのが面倒になったので、これは丸ごと、すっかり拙訳。







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