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ARCH 10

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇四年十二月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




テロテロ、ケロケロ


文学者は革命家であってはならない。あらゆる制度、体制に抵抗する反逆者であり続けなければならない。(オクタビオ・パス)

 ようするに、幕末なのである。新たな世界規模の倒幕運動が進行しているにすぎないのに、それをテロなどとあしざまに呼んで、あたかも大義の御旗を掲げたつもりになっている幕府側の人々が世界にはいっぱいいるようで、これが愚劣かつ醜悪なのは言うまでもない。しかし、そういう人々に事態を客観視する理性のかけらがあると信じて、まわりくどく御丁寧な説得と教育を試みようとする知識人たちや善意の人びとを見るにつけ、これもまた、どんなものかと思う。蛙の面に水、などという懐かしいことわざを、うっかり思い出してしまうというものだ。ケロケロ。
 問題は、テロとどう戦うかではもちろんなく(問題設定自体が誤っている)、どうしてテロが起きるのかでもなく(どうして起こるかなど、わかりきっている。テロをされる側がいわば悪代官連中だからだ)、テロと徹底的に戦うなどと平気で嘯く人々の非を、彼ら自身にどう悟らせるかでさえない(相手は確信犯的な既得権益死守者たちなのである)。
 他人の運命や生活環境に思いを到らせることなく、人の話にいっさい耳を傾けず、既得権の徹底した防衛と、いっそうの金銭的かつ物質的な足し算を継続するだけを習い性とする生物ばかりが繁殖した環境で、その生物の姿と生存条件を借りて地球体験をしている私たちひとりひとりは、さて、ごくごく具体的に、日々の時間をどう生き延びるのか。もはや、問題はここにしかない。
 テロへの警戒を厳重にしろと要求する者たちの多くは、どうやら、生き延びたからといって人類に価値ある何事かを残してくれそうには見えないし、一方、テロ対策の必然的な結果として出来して来ざるをえないプライバシー侵害や個人情報の開示に過激に抵抗する者たちには、たいてい、さほど貴重な個人情報もなさそうで、ついでに言えば、魅力もあまりあるほうではなく、私から見て、さほどの存在価値をお持ちのようにも見えない。テロには屈しないなどと本気で唱和する者たちに関しては、これはもう、稀に見るべき正真正銘の馬鹿というだけのことだろう。というのも、テロとの徹底した戦いなるものは、こちらにテロを仕掛けかねないあらゆる他人に対して、あらかじめ先制攻撃をするということに帰着せざるを得ないからだ。
 やれるものならやってみたらどう?、と言いたくなる。危険だの好戦的だのという前に、短い地球滞在なのに、他にもやることはあるだろうに。そもそも、こちらにテロを仕掛けかねないあらゆる他人とは、だれか? 誇張でなしに、自分以外のすべての人間ということになろう。いまどきは、小学生も主婦も老人も、そのうえ、あらゆる分野の医師たちでさえもが、平気で人殺しをするのだ。こちらとしては、子供から老人+全医師までを対象として、満遍なく先制攻撃をしなければいけないわけで、いくら平和への愛と人類への希望に燃えてみたところで、これはさすがに疲れるというものだろう。先制攻撃はもちろん、防衛さえ放り出して、万一やられてしまったら、あ、やられたなあ…、とでも思いながら意識を失っていくほうが、時間と労力の使い方としてはよっぽど有効ではないか、と思う。イエスさんのやり方は、まさにこれ。
 だいたい、テロなどというご大層な表現をみだりに口走ってみるから判断が狂うのだ。テロなるものの内実はなにか。具体的に考えてみれば、一個人である私にとっては、重傷を負わされたり、殺されたりという事態を意味するにすぎない。ようするに、運悪く人殺しに遭ってしまう、ということだ。「イラクで同時テロ」、「また自爆テロ」などという新聞見出しを、「イラクで同時人殺し」、「また自爆人殺し」などというふうに全世界で換えてみれば、これだけでもぐっと正確になるし、トーンも下がる。平和な感じになるとまでは言わないまでも、テロリストたちのヤル気をかなり削いでしまうような、しらけた視聴者のうんざりした口調といった感じが出てくる。全世界のマスコミが、「警察署前で人殺し、二十一名死亡」とか「旅客機人殺し、九十名絶望か?」などと表現するようになれば、テロリストたちは絶対にゲンナリする。自分たちのやることを、人殺し、人殺し、とだけしか表現されないとなれば、ヤル気をなくすのは時間の問題だろうに。テロという言葉は、実行者にひそかに正当性を与えてしまっているのだ。わざわざ、天誅といった美称を与えてやっているようなものなのである。
 世界史をちょっと紐解けば、人類の習い性は、動乱、戦争、殺戮、大小の革命をこつこつと惹き起こし続けていくことにアリ、と決まっている。小中学生ではあるまいし、数十年も生きてみれば、人間なるものはまったくどうしょうもないものだと、普通ならわかってくる。あれこれの快楽に忙しく目移りするばかりで、他人の不幸は耳目に入らず、他人の幸福だけはやっかみ、いいものを得たら得たで、奪われないように過剰に冷酷に暴虐になり、他人の死を喜び、いたぶりや殺しを喜ぶ。これが人間というもので、こういう性質が、ちょっとやそっとではどうにもならないということは、もう、くり返し証明済みのはずではないか。数千年や数万年このかた、まったく変わらなかった人類の本性が、この先数十年で簡単に変わったりしてたまるものか。
 たったひとつの問題は、こういう生物の群れの中にたまたま入り込んでしまった現況の中で、とにかくもワレひとり、どう生き抜いて、安楽な死を遂げるか、ということだ。あるいは、安楽な死でなくとも、心底満ち足りた、あっさりした死にっぷりができるか、あくまで自分自身に対してそれができるか、ということ。他に、問題と呼ぶべきほどの問題はあるまい。いやいや、さらに言えば、あっさりした死にっぷりだって、どうでもいいのだ。問題など、そもそもないんじゃないの?  ソクラテスは「汝自身を知れ」とか言ったというけれど、愚問である。数十年で消滅するような「汝」を知ってみたところで、なんにもなるまい。だいたい、それを知ろうと努める鳴かず飛ばずの歳月で、ほとんど人生の年限は尽きてしまうというものだ。「なんにもわからないでいいから、死ぬまで生きろ」とでもいうのが、真の教えというものだろう。「ほとんどの人は、自分がなにも知らなかったし、ろくな行ないもしてこなかったことを自覚するのに、まるまる一生を費やすものさ」*。こんなことになってしまうのを避けるために。『81/2』の中のフェリーニの言葉、「人生は祭りだ。みんなで生きよう。私にはそれしか言えない」なんていうのも、わかりやすくて、シンプルでいいかもしれない。
 他に探すとすれば、たぶん、心に留めるべきはたったひとつの言葉、ミルトンの『失楽園』でルシファーが言うあの言葉、Non serviamだ。曰く、われは仕えず。いかなる問題設定にも、思想にも、信仰にも、未来像や価値観の押し付けにも、過去の解釈にも、Non serviam。たしか、『若き芸術家の肖像』の中でスティーブン・ディーダラスも引用していたし、ジョイス自身の座右銘でもあった。ジョイスに仕えるわけではないが、この近代文芸の神様の真似をするのなら、ご愛嬌というものだろう。様様様様(ヨン様)ならぬ、他ならぬジョイス様の真似をするというのなら。
 渡辺淳一の真似でもないんだから。

   *ジョージ・マクドナルド『リリス』(荒俣宏訳)より







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