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ARCH 11

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇四年十二月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




ポズィション
(ある新聞記者へのメールから)




***新聞東京社会部文化班 御内
***さま、

 今回、記事の表現をめぐって小さなやりとりをするうちに、考えや問題意識の点で、そちらとぼくとのあいだに共通点があるように思えてきました。
 そちらの新聞のスタンスというのは、よくは知らないのですが、先日、某新聞の記者や批評家たちと話していた時に、朝日新聞でさえ世間の大勢に流されているように見える中で、今では東京新聞がいちばん体制側や大勢から遠いのでは、という話が出ていました。貴紙もその路線にあるのでしょうか?

   ぼくの場合、今の日本の風潮の大勢とはちょっと違った考えを持っていると感じており、そちらのお奨めの通りに、はじめからもっと大胆に書いてしまいたい思いはあります。しかし、担当しているコラムの性質もあって、そちらの新聞に書く際には、どうしても押さえ気味に書いてしまう傾向があります。押さえ気味に書いたり、仄めかし気味に書くことで、逆に効果が出る場合も多いので、それでかまわないとは思っていますが…

 しかし、そちらが、「グローバリズムを支えるネオリベラリズム(新自由主義)を考えるカギ」を求めていらっしゃることや、「東西冷戦後のグローバリズムの台頭によって少し全体状況が見えやすくなった気がしてい」るのを「皮肉にも」と表現なさっていることから、やはり、政治思想や社会動向についても、立場はともかく、少なからぬ問題意識の共通性はあるようだと感じます。そういう方に今後担当していただくというのは、非常に心強いものがあります。

   一九八〇年初期に大学を出られたというと、ぼくとほぼ同年代だと思います。ぼくは八二年卒業です。
 文学や演劇や芸術から思想、政治までのいろいろな事柄に関心を持ちすぎて(当時は、そういう関心の広さは若者には当然のあり方だったような気がするのですが…)、その後のバブル期以降をほとんど日仏における放浪状態で過ごし、三十歳近くなってから、自分にもっとも遠い場所である大学院に戻って、そこから、現在の細々とした稼業に繋がってきています。
 ついでなので、少し自己紹介しておくと、フランス文学・思想専攻で、特に関心のある領域はフランス革命とその周辺の文芸思想(中でも、特に、保守主義の元祖シャトーブリアンの革命思想的な読み替え)です。しかし、大学時代から現代思想や政治思想も好んで読んできているので、それらも、つねに個人的なテーマとなっています。ここから、力不足は重々承知の上で、下手の横好きといったかたちではありますが、哲学も専攻領域に入ってくることになり、この数年、大学の哲学科で、自由論(バーリン、アーレント、シュミット、ハイエク、ロールズなど)や、ドゥルーズ論、デリダやハーバーマス、とくに今年はテロリズムについての講義などをしてきています。
 一方、文芸のほうは、若い時からの趣味が嵩じて、二十年このかた短歌を続けており、来年からは早稲田大学で短歌講義をふたつ持ちます。自由詩のほうでも、今年いっぱいまでは『詩学』という古い雑誌の新人選考や合評を担当してきています。
 政治運動などはしていませんが、十年以上、あえて右翼思想や保守思想の人たちに近づいて、彼らの国家観や未来観を見極めようとしたことがあります。ぼくらが大学生の頃は、無意識のうちに知らず知らず左翼的になっていく傾向があったように思いますが、左翼的な思考のあまりの空論ぶりの危険さを早くから感じていたので、現実主義なるものの中枢に入り込んでみようとの思いがありました。
 かなり長い間、自分自身、保守主義者としてものを考えていた時期がありますが、現在は、保守思想の底を抜け出てしまって、遅ればせながら共和国主義者(ジャコバン主義者?)っぽくなりつつある感じがします。保守主義の戦略を盗み取った共和主義を作っていきたい、との思いがあります(大げさですけれど…)。政策的には、社会民主と共産の融合路線を理想としつつあります。

 そちらのメールに出てきたグローバリズムやネオリベラリズムなどの政治用語は、昨今、本当に扱いが難しくなってしまいましたね。
 グローバリズムは、世界的な流通網を持つ企業群やそれに繋がる幾多の人脈、さらには、それらを覆う仮面の一部としての「アメリカ合衆国」(この商標≠フあり方は、明らかに、「アルカイダ」に大きなヒントを与えたといえるでしょうね)などが、自分たちの恒久的な利益システムを作り出すためのキャッチフレーズとして作り出したと見做したほうがいいようですし、ネオリベラリズムにしても、アメリカの政治ブレーンたちがそれを用いる場合には、「新自由主義」などというとりあえずの訳語では、とてもではないけれどもカバーし切れないような歪みや思想的履歴が自ずと組み込まれています。そのうえ、いろいろな立場の人々が勝手な使い方をするので、同じ言葉を使って語りあいながら、全く噛みあっていないということもざらのようです。
 本来、アメリカは、西欧政治史上では初の君主抜きの実験国家としてスタートしたもので、それが始動した時代を考えれば、ソビエトよりもはるかに過激な試みでした。ソビエトが後に踏襲することになる性質、つまり、自国のシステムで地上を覆い尽くすという永久革命性は、今のアメリカという運動体の中でもフル稼動しているようです。そういう国家にとっての「自由主義」は、当初はイギリスからの独立を意味したけれども、それが建国時のアメリカの思想的な国体を形成した瞬間に、同時に、「保守主義」ともなって運動を始めました。自由主義と保守主義の、根源的な表裏一体性を掴んでいないと、アメリカの運動は非常に見づらいものになるし、アメリカから来る政治用語や思潮も、最初からわかりづらいものになってしまうように思います。いずれにしても、こうしたことは、十九世紀にシャトーブリアンや、その甥のトクヴィルなどが、別の表現ですでに言及していることですが。
 アイゼンハワーが批判して以来、拡大・強化する一方だった軍産共同体の果てにブッシュ政権があって、産業としてのイラク戦争や、売り上げノルマ達成のための局地的商戦としてのファルージャ攻撃などがあるにしても、そうした行動やそれを支える発想の根本に、アメリカ革命やフランス革命の時、止むにやまれぬかたちで炸裂した人類の運動性が厳然として存在するのではないか、という推測をしながら情勢を見たりしているところです。

   お話に出てきた『デモクラシーの冒険』(集英社新書)はざっと拾い読みして、面白そうだったので、これから再度、ちゃんと読み直してみようと思っている本のひとつです。姜尚中さんは、ああいうタイプの本をこのところ数冊出していますね。森達也とのアウシュビッツ訪問の本も面白かったし。
 ただ、ぼくが示唆を得たい箇所については、やっぱり詰めが甘いかなあ、という印象はありました。彼や高橋哲哉(東大・哲学)の感受性・方向性には共感するのですが、やはり、方法論の点では必敗ということになってしまうのではないのか、といつも思います。
 個人的には、政治における暴力の価値を真っ向から問題にするのを、もう政治思想の人々は避けて通れないのではないか、と感じています。そんなことをつねづね感じているので、ベンヤミンの『暴力批判論』を批判・解体したり、いわゆるネオコンの論客たちの理屈を逆手に取るかたちで、政権転覆を絶対正義とするための暴力の正当性を構築したいと思っているのですが、こういう点は、保守・右翼時代に培った現実主義から来るものかもしれません。

 保守・右翼時代の知りあいが、ネオコンとたびたび会って、日本の企業とネオコンを結びつける裏工作をしているのですが、彼らの働きを端で聞いていると、唖然とするほど、日本の産業界はネオコンと結びついてしまっています。思想的には対立するにもかかわらず、意図的に彼らと定期的に会って情勢を探るようにしているのですが、こういう人々が、姜尚中さんをはじめとする東大系の理想主義政治学を口を極めてバカにしているのが印象的です。この十年ほどのうちに中国と日本のあいだに軍事的な問題が発生する可能性は高いだろうけれども、そうした有事の場合、アメリカといっそう密に関係を保って国体を維持する他に、どういう防衛措置がありうるのか、といつも訊かれます。アメリカと関係を切って中国の「属国」になるか、EUと遠距離の同盟を軍事的にも結ぶか、ロシアを含めたアジア諸国での関係緊密化に向かうべきか…等と語り合ううち、やはり、黒船以来、いちばん気心の知れているアメリカと親しくしておくのが一番経済的である、という結論に達しがちになりますね。
 ぼくとしては、そういう結論は不本意なのですが、アメリカの蛮行を不快に思いつつも、中国やロシアや(英米のイラク侵略以後、完全にアメリカ離れを遂げた)EUの動きとも拮抗しなければならないとなれば、日本の外交にどのような選択肢がありうるのか、確かに難しいところです。独自の対外路線を切り開くとなれば、自国の軍事力の完備が必要ですし。姜尚中さんたちの言説には、そういう点での有効な政策案がいつも欠けている気がします。

 そういえば、フランスもドイツも、アフガン侵攻決定の頃から(つまり英米のイラク侵攻決定以前に)、食料の自給自足政策を大幅に推し進めて、アメリカからの輸入を抑えてやっていけるように農業生産を回復させていました。今回ぼくのコラムで取り上げたフランス政府の女性政策問題にも通じますが、フランスの外相の国連での反米演説の背後には、数年にも及ぶ対米戦略の積み重ねがしっかりあったわけで、やはり、ヨーロッパの政治のしたたさを再認識させられたものです。

 そちらからのメールに触発されて、今回は、純粋なおしゃべりをさせていただきました。

              (2004.12.8)
              (2004.12.13 修正)

   *ジョージ・マクドナルド『リリス』(荒俣宏訳)より







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