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ARCH 12

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇四年十二月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




久しぶりに/はじめて 春日井建のほうへ



 春日井建が亡くなって、三ヶ月ほどして現代詩手帖特集版『春日井建の世界』が編まれた。
 それを手にとったのは偶然からである。絶筆となった短歌六首が最初のページに載っており、次の一首に惹かれた。
  ヴェネッチア、仮面(マスカ)行列(レード)が行く阜頭金の灯白金の灯は列なりて

 ページを繰っていくうち、また、目を惹いたものがある。

   マーラーの第五番第四楽章のアダージェット 月は全円を影となしたり

 こちらのほうは『白雨』からの撰だった。
 どちらも、天才の名、寵児の名を恣にした『未青年』頃の春日井建の歌ではない。ある程度長きに亘って作歌を重ねてきた歌人ならば、春日井建ならずとも作りうる歌と見えた。もちろん、マーラーとあの第五番第四楽章への言及から始めた歌を、「月は全円を影となしたり」と収めるのは至難の業で、誰でもできるなどというものではない。ほとんど、誰にも叶わぬ類の下の句とみなすべきことに変わりはない。
 しかし、この二首に共通する、いわば作歌の心のカメラの固定ぐあいとでもいうべきものを、春日井建の署名を持つ歌のうちに発見したことは、私にはひどく新鮮だった。これらの歌の作者は、作歌しつつ、すでに死んでいる。なにかのために見る目、なにかのために感じる心、それらをすでに失って、単に、いまだ見開かれている目、いまだ感じつづける心として、景を捉えている。そのように私には見えた。
 春日井建が、一気に、私の同志とも先達ともなった瞬間であった。

         *

 その後、この特集版に載せられた水原紫苑撰による代表歌三〇〇首をゆっくり読み進みながら、私ははじめて、春日井建の魅力に啓かれていったという気がする。名歌にもかかわらずその撰に漏れたものも多いようだが、多彩な執筆者によるエッセイを読めば、ある程度の補完も難しくはなかった。三島由紀夫が「つきつめた魂の叙情」のゆえの名歌と呼んだ

   火祭りの輪を抜けきたる青年は霊を吐き出  しか死顔をもてり
       (『行け帰ることなく/未青年』)

には、あいかわらず私は不感症のままだったが、たとえば、

   今に今を重ぬるほかの生を知らず今わが視  野の潮しろがね       (『友の書』)

   噴泉のしぶきをくぐり翔ぶつばめ男がむせび泣くこともある          (『朝の水』)

   あとさきと言へ限りあるいのちにて秋分の日の日裏日表

   片照りて片翳る原いちやうに葦は枯れたるままに直立つ

   打ち寄せる波の白扇見てあれば礼節を知れといふ声はして

   弱冠とふ冠われにありしころ晴ればれと読みしかの対話篇

などの歌の数々は、最近の短歌にすっかり倦み切っていた私を、ふいに清涼な詩歌の山稜に出たような思いにさせた。春日井建を読み違えていた、そう恥じる気持ちになったが、考えてみれば、これらの歌を集めた集を私は読んでいない。二十代の私が意気盛んに学んだのは、国文社現代歌人文庫『春日井建歌集』に収められた『未青年』と『夢の法則』全編、および『行け帰ることなく』抄までだった。その後、おそらく十年余を経てから、古書店で偶然購い求めた『青葦』初版を読んだものの、次のような歌を除けば、さほどの感銘は受けなかった。

  ただよへる雲に応えて石ながら男の腹部照り翳りゐつ

   うちつけに大運河ふりむけば小運河黒き喪の舟はわれを誘ふ

   男とや沈めとや水圏に棲むものの冷たかりける皮膚の誘へる

 この歌集については、中井英夫が、あえて毀誉褒貶とりまぜた、親身と見なすべき書評を書いたが、彼をして次のように書かせしめたものを、私なりに正確に読み取っていたのだと思う。
「この稿も前半まではそのつもりで書いたのだが、さらに何遍かノートを取りながら『春の餞』以下を読み返すと、せっかく兄の代わりに勇んで未知の曠野に旅立った弟も、地の涯に立つかのような三島由紀夫の巨大な壁の前で、また力尽きて引返してきたような気がするので、あえて苦言めいたことを記した」。

  まひるまに夢見る者は危しと砂巻きて吹く  風の中に佇つ

 この歌集中、代表歌のひとつに数えられることの少なくないこの歌にしても、私の心を打つには足りなかった。「まひるまに夢見る者は危しと」という一息の歌い出しに魅力を感じないわけではなかったが、ただでさえ一時代前の気取りを匂わすこの表現に「砂巻きて吹く風の中に佇つ」と繋げるのは、ほとんど噴飯物と思えた。二十歳そこそこの若者がこのように書くのならば、ナルシシズムの通過過程のレトロな詩化の試みとして、微笑ましくないでもない。しかし、これを発表しているのは、すでに四十六歳の春日井建であり、『青葦』刊行は一九八四年なのだ。しかも、私がこれを読んだのは、八四年どころか、二十世紀も終わる頃、たしか九十五年以降だった。青年も壮年も、「砂巻きて吹く風の中に佇つ」よりは、寸暇を惜しんでテレビゲームやインターネット、パソコン通信などにのめり込むようになっており、携帯電話でのメールのやりとりは誰にも容易なものになろうとしていた。一時代前のようなナルシシズムやロマンティシズムが生まれ得るだけの恵まれた空隙は、生活や心の隅々から失われていきつつあった。じつは、そこにこそ、新たな時代の問題の核が浮き上がってきつつあったし、若者のみならず、あらゆる人間にとっての内面の保ち方の危うい新条件が露呈しつつあったのである。
 春日井建の短歌に、私はそのあたりで愛想を尽かしたと言ってもよい。一九九九年以降に刊行されていく『友の書』、『水の蔵』、『白雨』、『井泉』、最後の歌集『朝の水』といった春日井建の後期の歌業にまったく触れないで来たのにも、私なりに理由はあったと言える。

         *

  『春日井建の世界』に集められた多くの評論やエッセイの中には、三島由紀夫や澁澤龍彦、中井英夫などによる、まさに春日井建の名声を定立したリアルタイムの文章もある。稀な才能の出現を惜しみなく寿ぐそれらの文章は、まことに煌びやかで、かつ、含蓄も深く、今読み直してもいろいろと考えさせられるものなのだが、しかし同時に、これらの文章が、どれだけ春日井建の、未来のよき読者を遠ざけてしまったかをも、私は感じずにいられなかった。
 三島由紀夫の文章は、華麗に自らの美学に春日井を引き込みつつも、若き歌人の今後の創作を阻まないだけの批評的間隙を残していて、その点、見事なものであるとは言える。中井英夫の場合も、春日井建を見出して、歌壇に引き出した人だけに、手離しの賛辞をけっして送らぬかわり、古い歌壇からの無思慮な非難には自ら矢面に立つごとき愛情がある。
 にもかかわらず、恐ろしいのは、彼らがよかれと思って用いたであろう、そうした修辞のひとつひとつが、その後の春日井建のイメージを、なにより来るべき読者に対して縛っていった事実である。
 たとえば、春日井建の歌に「現代の只中に生きてゐる少年の、いつにかはらぬ心細さ、うひうひしさ、残酷さ、孤独、などが、純一無垢にあらはれて」おり、「彼はただ、『絶望の容器』を探してゐるだけ」だという三島の批評が、いかにも説得力を持って読まれてしまうにしても、そこに並べられた「少年」、「悪」、「反社会性」、「自己破壊」、「青春といふものの挫折の主題」などといった、実際にはなにも語っていないに等しいキーワードは、どれもメッキ物の強い煌めきを以て、そうしたキーワードに引き摺られない魂をすでに備えた若者たちを素通りさせてしまいかねないだろう。むろん、「少年」をはじめとするこれらの観念は、壮年になり、老年になるにつれ、悔恨と快楽のアマルガムとして精神の中に激しく逆流してくるものなので、そうした意味も込めて三十五歳前後の三島が語っていたと考えられないこともないのだが、彼の語り口は、しかし、それらの観念の危険さへの配慮を潜めるにしては、浮かされたところが目立つように感じられる。
 澁澤龍彦の批評も見事なもので、三島のそれよりも、春日井の本質を見抜いた分析を行い得ている。とはいえ、たとえば『現代日本における〈性の追求〉』と題された評論の中で、春日井建はやはり、「少年は少年であるが故に、表現に対する不信と絶望とから、猥雑な現実と相わたることを本能的に避け、定型という避難所を選んだまでのことだった」と評され、「『未青年』一巻に、みずみずしく匂うように息づいているエロティシズムは、申すまでもなく、幼いナルシシズムのそれである。愛する者に変身したいという願望、不可能を夢みる欲求、――これらは少年期特有のあこがれと言ってよい」と追いつめられ、引き合いに出されたコクトーやジュネと絡まされた上で、「少年期特有の屈折したナルシシズムのあらわれ」としての格好の文学的症例のひとつたるお墨付きを貰った挙句に、「何にまれ自分の愛するものに変身したいと一度も望んだことのない少年は、おそらく一人もいないだろう。少年院や非行少年や、戦争すらも、作者がただ遠くから眺めてあこがれている、美しい悪の象徴にすぎない」と断定されるに到る。これでは誤解されかねないと思ったのか、澁澤は九首を並べた後、「もし春日井建が短歌以外の表現形式に頼っていたら、とてもこれだけ自由な青春の魂の、魂自体の論理の志向するところに全的に惑溺することは不可能だっただろうと思われる」と書き、『未青年』を「稀に見る美しい歌集」と賞賛して終えるのである。
 三島の場合にしても、澁澤の場合にしても、いろいろな側面が文章に盛り込まれていて、彼らの文章について一面的な断定をするつもりは私には毛頭ないのだが、それでも冷静に見直してみれば、ともに、唖然とするほどのテーマ批評であり、短歌にとってなにより至上価値のある文体論上の批評には、まったく踏み込んでいない。春日井建がどのように言葉を置き、動かしているか、そういった歌体上の創意や継承に関わる問題に少しも触れられていないのは、真に驚くべきことと言うべきではないか。歌人にとっては、テーマもモチーフも素材以上のものではない。歌体を形成すること、語やイメージや音や意味を練り、融合し、時には切断し、省略し、冗漫や崩れさえも用いて、歌の体を捏ね上げること、それこそが重要なのであって、そのためにならば、いかなる言葉もいかなるテーマも用いようとするのである。三島や澁澤の、読むにはまことに面白い批評文が、こういう点を平然と看過しつつ闊歩しているさまを、私はじつに恐ろしいことと思う。「これだけ自由な青春の魂の、魂自体の論理の志向するところに全的に惑溺する」… こうした空疎な言辞を弄して、何事かを語ったと思っていられるのが、はたして文才とでも呼ばれるべき豪胆さなのだろうか。
 さいわい、『春日井建の世界』という特集版には、こういう点での補完の役割を演じうる文章も集められている。短い文章なのだが、藤井貞和と長谷川龍生のエッセイは、短歌についての文章のあり方として、模範とするに足るほどのものである。
  大空の斬首ののちの静もりか没(お)ちし日輪がのこすむらさき

『未青年』の巻頭を飾る有名なこの名歌について、藤井はこのように書く。
「没(お)ちし、という字法や、日輪、のこすむらさきなど、語彙的一つ一つが、たたずまいというべき相貌で、先端性をひらく。そういう先端性は表現のすみずみで、何によって保証されているということであろうか。このことこそ、万葉歌という古くささを去り嫌う平安歌人たちが、思いっきり五七五七七を新しくしてみせた、革新性の再来と同様である」。
 一方、春日井の短歌から「ぶつかって」くる「抒情をこえる波濤」を受けつつ、「その展開し、ひろがり、定着する描像は、私が手なづけようとする操作の水準以上を描ききっていて、舌を捲いたものである」と書き出す長谷川龍生は、批評文の一見した整いぐあいの保持にかまけることなく、たとえば、やはり『未青年』中の

   荒蕪地の野に曇天に放たれし血忌の朝のけ  ものかわれは

という歌についてこう書く。
「私の好きな作品の一つである。自毒作用を持って解放、自由の道を歩まんとしている意気ごみが存在している。『血忌』という言葉に、人系の怖しい、わけのわからない、いまわしい運命が、うねりの様相を呈している。人系を、けものの系として、降りかかってくる苦難をのり切ろうとしている。『血忌』という言葉が、その意味するものの領域をはみ出して、大海人皇子のように野に放たれるのである。すさまじい」。
 藤井にしても、長谷川にしても、意味やイメージ、音、言外の意味作用などに繋がる微小装置としての言葉の使い手たる詩人として、春日井建の言葉の扱いに先ず注目し、そこから離れずに、テーマやモチーフの導入意義を捉えていこうとしている。三島や澁澤のような煌びやかさはないものの、こういう文章で探求される時にこそ、詩歌の人間の栄誉はあるというものだろう。玄人が他の玄人の技を、技量を凝視する。分析し、盗めるだけのものは盗もうとする。そしてついに、天賦の才という他ない、どうにも盗み得ぬ神技に遭遇し、心底からの静かな敬服を捧げる。時代を超えていくべき詩人誕生の認知は、こういうふうに為されていくのである。

         *

 一九九九年の春に咽頭に見つかった腫瘍は、二〇〇四年五月二十二日の中咽頭癌による他界へと、ひとすじに春日井建を導いていった。すでに歌壇においてはよく知られた事実である。必要に応じて入退院を繰り返していたようだが、存外、活動は活発で、二〇〇三年までは講演や旅行、催しへの出席に忙しかったらしい。この間の様子は、年譜を追ってみるかぎりでは、病気とも思えないほどの充実した、元気なものとも見える。二〇〇一年に九十四歳の母親を失ったのが、あえて言えば、生涯独身だったこの歌人にとっては、いちばん応えたのではないかと思えるが、その折りにさえ、

  てのひらに常に握りてゐし雪が溶け去りしごと母を失ふ            (『朝の水』)

   熄むといふ一語をおもふ火の息ののちのしじまに母は横たふ

   告げ足りぬ言ひ足りぬこと羽閉ぢて冬の孔雀がうづくまりゐる

といった名歌を成している。
 闘病の、というべきなのか、それとも伴病の、また、運命の受容の、とでもいうべきなのか、五年間におよぶ歌のすべては、治療の過程での、そして、次第に現世の領土を狭められていく過程での歌であったといえる。それらの中には、

  病むにさへ幸不幸ある劣化ウランにガンとなりたる少年もゐて         (『朝の水』)

   滴下する薬はハムレットの父王の鼓膜濡らせしと思ひつつ差す
  のどは暴(あば)ける墓(*)とぞ嚥下できかぬる一句が夜のしじまをふかむ *ロマ書
  宇宙食と思はば管より運ばるる飲食(おんじき)もまた愉しからずや

   神託はつひに降れり 日に三たび麻薬をのみて痛みを払へ

   神を試してタンタロスは飢餓を得しといふ神知らぬわれにも何かが迫る

   舌の根はもはや渇けりわれは神を知らぬ持たぬと呟きしゆゑ

など、病そのものに直接向かった歌ももちろん多いが、直接に向かうほどに、「ハムレット」や「タンタロス」や「宇宙食」や「神」や「神託」が現れるのが興味深い。
 これらの歌を読んでいると、私には、春日井建が四十代半ばだった頃の『青葦』の

   死ぬために命は生るる大洋の古代微笑のご  ときさざなみ

   一歩一歩空の梯子をのぼりゆく堕ちなむ距  離を拡げむとして

   夏嵐すぎし暁ひろげ読むギリシャの古詩の  尾根晴れわたる

などの歌が思い出されてならない。そうして、彼の晩年の詩想から、四十代の詩法、さらにデビュー当時の煌めきへと思いをめぐらせて遡りながら、はたして、春日井建の出自が、どの程度まで日本であったのか、日本の詩歌であったのかと、突拍子もないような疑念にとらわれる。日本人であったことさえ、怪しいと思われてくるのだ。
 三島由紀夫は、春日井建における「象徴言語」の「ふんだん」な「復活」のゆえに、『未青年』の序文を「われわれは一人の若い定家を持ったのである」との有名な一文で終えたが、少なくとも、春日井が「定家」でなかったことだけは確かなことではないのか。もとより、ひとりの優れた歌人が「定家」に通底していないわけがない。「定家」とはゆかりもないと言いたいのではなく、彼を「若い定家」と呼んでしまえば、決定的に欠落してしまうものが出てくる、そういうことには敏感でありたいと思うのだ。そういう点には、いくら注意を払っても足りないほどだろう。周囲にそうした配慮があれば、春日井建の壮年はもっと軽快であり得たに違いない。
 『豊饒の海』の後に定家についての小説を構想していたという三島が、おそらくは、自らの創造世界の領土拡大における無意識な発露として語ったにすぎない「若い定家」なる評言に、いつまでもかかずらう必要はあるまい。ここではむしろ、澁澤龍彦の『異端者の美学』の中の、次のような考察を思い出しておくべきかもしれない。
「様式化とはむき出しの状態における現実の全的な拒否でもなければ、現実の断片をひとつひとつ拾って無意味な現象のモザイクを造ることでもない。様式の創造とは、生のままの現実を峻絶すると同時に、現実のある未知なる様相を昂揚することによって、そこから得た要素を作家の世界観に従って再び構成し直すことより以外の操作ではあり得ない。この努力の持続は弁証法的であり、強力な現実否定のモメントによる以外には、一瞬間たりともその運動を開始すべき端緒をつかみ得ない」。
 春日井建についての考察へ進む途上に見られるこの箇所は、読みようによっては、春日井ばかりか、他の歌人たちをも、日本固有の短詩型におけるローカルな詩人であることから解放している。ここまで来れば、世界中の詩人たちが、土俵を同じくして討論に参加することができる。こういうところは、あくまでヨーロッパの文芸思潮を自らの批評の核に据えて、日本や世界の文芸・芸術のあいだを往還した澁澤ならではの成果というべきだろう。
「この努力の持続は弁証法的であり、強力な現実否定のモメントによる以外には、一瞬間たりともその運動を開始すべき端緒をつかみ得ない」とは、美しくも極めて具体的な方法論である。春日井建への私の遅ればせながらの賛嘆が、彼の生涯の作歌に「強力な現実否定のモメント」が一貫していたと感知できたことから来ているのは確かだ。現実の春日井建は、瀟洒にして温厚な紳士であったらしいが、そうした振る舞いと「強力な現実否定のモメント」との交差するところに、「礼節」というべき詩歌の倫理が言葉の血肉を備えたのだ。僥倖が、確かに起こっていたのである。

打ち寄せる波の白扇見てあれば礼節を知れといふ声はして           (『朝の水』)

   人生観と詩法と景との幸福な一致が歴然たるかたちで此処には提出されており、さらに此処では、歌が、導きの呼び声となって、白扇の波の心象の上を作者自身へと渡っていく。作者とは、もちろん、詩歌という神託の最初の受け取り手のことであるから、この呼び声はすべての読者に、すなわち世界に響き渡っていくのである。

         *

 さて、死は?
 はたして、こういう春日井建の詩魂にとって、それがなにほどのことか?『青葦』にこういう歌がある。

    仰向けの額に晩夏の陽は注ぎ微笑まむ若年  といふは過ぎきと

 人生といふは過ぎき、との静かな微笑みの持続をも、おそらく、この歌はつよく後世に向けて構成し続けてやまない。そう感じとるのが、自然な詩歌の読み方というものではないか。そもそも、先に挙げた歌をもう一度引きつつ言えば、

死ぬために命は生るる大洋の古代微笑のご  ときさざなみ

ということだったはずでもある。
 打ち寄せる波、さざなみ、古代微笑、微笑まむ、という用語のゆるやかな連関によって、これら三首は、春日井建という歌人についての輪郭を巧まずして形作るかのようである。死というよりも、永遠のいのちの生誕が継起し続けている大洋上の結界に、春日井建のもろもろの歌を通じて、私はたどり着いたように感じる。
               (2004.12.20)










[参考]春日井建略歴
一九三八年一二月二〇日、愛知県江南市生。父春日井Oは太田水穂に師事する歌人で「潮音」同人。さらに、「覇王樹」「短歌」(中部短歌会)を創刊し、その同人でもあった。母政子も「短歌」同人。
一九五八年『短歌』(角川書店)八月号に、中井英夫推輓により「未青年」五〇首掲載。現代歌人アンソロジー「新唱十人」に加わり、「生誕」一〇〇首を発表。
一九六〇年『未青年』刊行(作品社。序文・三島由紀夫。三五〇首)。
一九七〇年『行け帰ることなく』(深夜叢書社。七〇〇首)を、『未青年』全編を併録し、全歌集として刊行。これを以て、短歌と別れる。
一九七四年『夢の法則』(湯川書房。八〇首と詩三編)。
一九七九年、父O死去に伴い、「短歌」の編集発行を引き継ぐ。短歌再開。
一九八四年『青葦』(書肆風の薔薇。三七五首)。
一九九九年春、咽頭に腫瘍発見。
一九九九年『友の書』(雁書館。三八七首)。
一九九九年『白雨』(短歌研究社。三六七首)。
二〇〇〇年『水の蔵』(短歌新聞社。二七五首)。
二〇〇〇年『井泉』(砂子屋書房。三七〇首)。
二〇〇四年『朝の水』(短歌研究社。四一一首)。
二〇〇四年五月二十二日、中咽頭癌により死去。六十五歳。
*現代詩手帖特集版『春日井建の世界』所収の喜多昭夫編の年譜、大塚寅彦編の書誌を参考にした。







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