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ARCH 13

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇五年三月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




様式と「私」



 倉田良成の詩集『夕空』が出て、小さな記念会が白楽のメリオールであった時、感想を求められた。仏教色が強くなっているし、仏教テキストからの引用が目立つようになっていて、これは読者へ与える印象や効果ということを考える場合、クリティック(危機的とか、重大局面とか)かもしれない、と言った。それはそれで間違っているとも思わないが、仏教や儒教、道教に深く浸透された日本や東洋の古典が強いてくるまなざしを用いて、未知であるはずのポエジーを、今の自分から距離を取ったところで小ぎれいに料理してしまうことになりはしないか、そうして、落としどころはいつも一緒、ということになりはしないか、といったようなことを本当は言いたかった。
 肺癌と身体の他の部位への転移という事件を切り抜けた倉田の気持ちの推移は、わからないわけではない。まだ病気との闘いが切実だった頃、比較的長めの表現形式である自由詩が書けず、短歌ばかり書いていたと聞いた。病気が治まってきた頃、病中作のその一連の短歌を送られ、読むと、現実の自分の病のさまに肉薄した表現ではなしに、様式化された短歌らしい短歌、というより、まさしく和歌と呼ぶべき歌が並んでいた。歌の柄は美しく整って、あるいは、整わせようとされていて、病気でもない者が想像して病を詠っているかのようなものも少なくなかった。痛ましかった。病とはこういうものか、と思った。自分の苦境に肉薄できず、かえって様式に拠る。病中の倉田の短歌表現は、病の実相に触れようとはしていなかったと思えた。
 今ここで、彼は短歌形式に縋ったのだ、と言い換えてみても、倉田に失礼には当たるまいと思う。なんらかの重病に見舞われて、言葉で心境を表現する、表現しながら、わずかの心の未来を創ろうとする。それをするもしないも、また、どのようなかたちでするか、どうなってしまうか、そうしたことは皆、ひとりひとりの一回性の経験であって、もとより評定の枠に当て嵌めるべきことではない。倉田は、病中にあって自由詩よりも利便性のある短歌の様式を杖として、彼の詩の延命を試みたのか、と思われた。ある人間にとっての詩は、なにも、書くという行為でつねに露呈されなければならないものではない。詩とは樹液のようなもので、書かないことこそ、それをよく湛え得る時もある。詩とうるさく主張されて書き表わされたものより、ペンも握らず沈黙を守って、そうした書き物の場から目を逸らす行為にこそ詩が充溢していたりするのは、日常茶飯事のことだ。和歌の様式を杖にして、しかも、つねづね必死に現代文学であろうと腐心する短歌の救いがたい通俗性(現代的であろう、文学であろう、言語表現をもって現実に真相に肉薄しようといったこと以上に通俗な欲望があろうか)など一顧だにせず、倉田が自らの樹液を守ろうとした、と考えてみることは、私には小気味よかった。倉田の病中の和歌を読みながら、短歌など下らぬ、という彼の表白を私は聞いたように思ったのである。古典的かなづかいを捨て、様式を捨てた近現代短歌など、何ほどのものか。ほぼ中世までで終った和歌の帝国を遠く遠望する、古色蒼然たる儀式としての月並み和歌のまねびこそよけれ、と、築地のところどころ崩れた荒れ放題のどこぞの架空の館で、たゞ、月と枯れ薄を肴に酒を酌み、歌論を、というより、歌論の無用さを、私はこの時、倉田と語り合っていたようだった。
 こういう思いを持って倉田の詩歌に付き合ってきた私には、『夕空』における古典臭や仏教臭も、そう気になるわけではない。杖に過ぎまい。もう樹液の滲み出るのを隠さなくてもよかろうとは思うものの、木々には木々の事情もあろう。あるいは、ボルヘスや晩年の石川淳のように、杖を持って歩くのが気に入ってのことか。
 様式的な和歌の利用ということで言えば、倉田の病中歌を読んでいた時に思い出したことのひとつに、当然、三島由紀夫の辞世があった。

  益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜

  散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と咲く小夜嵐

 殊更な、この華やかな時代錯誤の歌のさまに接して、もう少しどうにかならなかったのかとの感想を多くの人が抱いたのは、想像に難くない。この紋切り型、この月並み。酒の席の座興ならともかく、命を絶つという間際の詩歌表現としては、むしろ、なんという軽さ、冗談であることか。
「短歌という伝統定型詩のなかでもうすっかり『私』を消してしまっている。鳥居のような枠だけになっている。この『益荒男』に三島が生きているのでしょうか。耐えて、耐えて、鎮めてその日を迎える益荒男に歴史上の誰れ彼れを考えることも出来る」。
 春日井建はこう言ったが(『三島由紀夫と私と短歌』)、「私」を消すことは、むろん、「私」をいっそう生きることに通じる場合がある。日頃の「私」、あるいは内面の、もっと本当の「私」など、何ほどのものか。それらを消して、もっと鮮烈に掬い取りたい、抉り出したい「私」が誰にもあろう。三島にとっての、様式そのもののあの和歌は、明らかに、まだ見ぬ「私」へと一息に突入するための引き金であり、ギアであった。引き金やギアが、堅固に月並みなものであるのは当然である。そうあらねばならない。独創や個性に媚を売ったり揺らいだりする引き金やギアでは、それこそ、まだ見ぬ「私」への命を賭けるのに足りないのである。三島にとっては、おそらく和歌は、歌舞伎の大見得や六方のようなものでもあって、まさに旧来のかたちそのままにそれを自分が演じてみることで、より選ばれるべき「私」の炸裂がはじめて可能になると見えていただろう。
 いささか別の話と受け取られるかもしれないが、それでも私にとって、此処で考えてきたことに繋がるものとして、小野茂樹の言葉が思い出される。一九七十年に三十三歳で事故死し、短歌の世界で未だに伝説的に読み継がれる歌人の第一歌集『羊雲離散』の後記の中の言葉だ。
「日常会話ですら完結しがたい日々に、何ごとかを言いおえる世界がどこかにあっていい。その意味でぼくが短歌に求めるのは、みずからに断念を強いる明快な仮説である」。
「何ごとかを言いおえる世界」は、まさに詩の世界であり、短歌の世界のことだろう。「何ごとかを言いおえる」以外のために、だれが詩歌を書くのか。また、読むのか。「おえる」こと。詩歌を書き、読むことが、いつも死に似ているのは、このためだ。似ているのではなく、詩とは事実、死なのである。
 ただ、忘れるべきでないのは、数え切れない無数のかたちで、人は「何ごとかを言いおえる」ということだ。死は結局のところひとつの現象だが、死にざまは数え切れず、死に際の彩なす思念には限りがない。それをむやみに単純化して整理しないところにのみ、文芸の倫理はある。

  あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた   一つの表情をせよ      (小野茂樹)

  「数かぎりなき」のほうへと、努めて向かい続けること。「たつた一つ」のほうは、じつは、初めから得られているのだから。







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